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シルクロードに撒布された 「死の灰」
核実験場ウイグル 奇形児の悲劇
ヒロシマを経験した日本は、
  中国の核汚染の被害に直面する
    ウイグルのために何をすべきか




ある外科医の勇気ある告発
 中国の新疆ウイグル自治区では、大脳未発達の赤ちゃんが数多く生まれ、奇病が流行り、癌の発生率は中国のほかの地域に比べ極めて高い。 それは核実験の後遺症である可能性が高いが、中国政府の圧力のためにその事実は公にされず、支援を受けられない患者たちは貧困のため薬を買えず、治療を受ける機会さえなく、なす術もなく死を迎えている。
 このような内容のドキュメンタリ“D‐eath on the Silk Road”( 『シルクロードの死神』 )が、1998年7、8月イギリスのテレビ局、チャンネル4で放送された。 同番組はその後フランス・ドイツ・オランダ・ノルウェーなどの欧州諸国をはじめ、計83カ国で放送され、各国に衝撃を与えて、翌年優秀な報道映像作品に贈られる世界的に有名なローリー・ペック賞を獲得した。
 このドキュメンタリーで真実を訴えたがために、多くのものを失ったウイグル人医師がいる。 新疆ウイグル自治区の区都ウルムチで外科医をしていたアニワル・トフテイは、何度も国際学術会議に出席し、難度の高いオペを行い、何よりも目の前の患者を最優先していたため、ウイグル人・漢人を問わず患者に信頼され、尊敬されていた優秀な医師だった。 彼はトルコの病院に勤務している時に、『シルクロードの死神』 で中国の核実験による後遺症を世界に告発したことにより、中国への帰国は叶わなくなり、家庭は崩壊。 中国に残していた2人の子は出国を許可されず祖父母が養育している。 政治亡命先のイギリスでは、狭い借家で、彼と同じように政治亡命してきた大勢のウイグル人とともに暮らす。 欧米諸国では他国で取得した医師免許を認めないから、外科医として活躍する場も失った。 慣れない生活と苦しい暮らし向き。 自分の能力を発揮できない日々に苛立ち、酒量が増えた。 だが、彼はそれを 「決して後悔していない」 と語る。
 彼が原爆症を調査し始めたきっかけは、些細な出来事だった。
 ウルムチの鉄道局付属病院で腫瘍専門外科に勤務していたとき、漢人の主任医師が 「まったくウイグル人ってのは健康だな。 ( 腫瘍外科が管轄する )入院患者全40床のうちウイグル人は僅か10床だけだ。 3対1の割合で漢人が多い」 とぼやいたことがある。 それを聞いたアニワルは、 「そんなはずはない」 と思ったが、その場では反論しなかった。
  「なぜなら私の勤務する病院に入院できるのは、鉄道局に勤務する労働者だけだ。 鉄道局には16万の労働者がいたが、ウイグル人はその内のたった5千人だ。 つまり、病床に占めるウイグル人の割合は漢人より圧倒的に多く、ウイグル人の健康状態の方が悪いことを意味している。 だが私には、なぜそんな数字が出てくるのか分からなかった。 私は医者として、どうしてもその原因を突きとめたかった」
 この頃から資料やデータを探すようになった。 1994年9月、鉄道局は全ての鉄道沿線の鉄道労働者とその家族の健康調査を一斉に行ない、アニワルは腫瘍に関するデータを集計するチャンスを得た。 ドキュメンタリーで使用した悪性腫瘍発症率を記したグラフは、その時のデータを用いた分析だ。
  「ウイグル人の悪性腫瘍発症率は中国のほかの地域の漢人に比べて35パーセントも高いという調査結果が出た。 これはとんでもない確率だ。 その後、継続して分析した結果、新疆に30年以上暮らしている漢人も、ウイグル人と同じく非常に高い確率で悪性腫瘍を発症していると分かった。 20年以上暮らしている者は約25パーセント、10年以上であれば10パーセント、10年以下の漢人は『内地』 の漢人とほぼ同じだった。 つまり、この数字は新疆の地に何らかの原因があることを明示している。 漢人かウイグル人かに関係なく、この地に長く暮らすと身体に『問題』 が発生するのだ」
 アニワルはそもそも政治に強い関心があるわけではなかった。 患者の命を救うことを第一に考え、誰にも公平な正しい医者になりたかっただけだ。 ところが原爆症を告発した今では、中国共産党から 「新疆分裂主義分子」 のレッテルを貼られ、お尋ね者になり、 「中国に人境すれば禁固20年は免れない」 という。 彼は声を震わせて怒った。
  「これはウイグル人のみの問題ではない。 新疆に長く住んでいる漢人だって他の民族だって、みな原爆症に苦しみ続けてきた!』
  「アニワル」 はウイグル人男性に多い名前の一つで、アルバニア大統領 「エンヴェル・ホッジャ( アニワル・ホージャ )」 にちなんで名付けられたという。
  「『アニワル』 の名は昔からウイグル人の中にもあったけれど50年代には少なく、60年代になって急増する。 半ば鎖国状態で海外報道が少なかった当時、それなのにラジオは毎日、友好国のアルバ二ア情勢だけは放送していた。 そのせいで雨後の竹の子のようにアルバ二ア大統領と同じ名を持つ子供が増えた。  『エンヴェル』 はスターリン礼賛者で、多くの国民を政治闘争で死に追いやり、今ではアルバニアで最も嫌われている人物だ」
 と言って、舌を出して戯けた。
 母語のウイグル語と同じぐらい流暢に漢語を操る。 1963年コムル( 哈密 )に生まれ、まもなく鉄道局の学校に勤務する父の転属でウルムチに引っ越し、そこで育った。 当時、鉄道局に所属するウイグル人はほとんどおらず、同局が労働者夫婦のために運営した幼稚園や小中学校は漢人の子ばかりだった。
  「保育園から漢人のコミュニティに放り込まれたから、漢人の考え方や行動パターンは、他のウイグル人より理解している」
 彼の子供時代は、いまの新疆で普遍的に見られるような漢人とウイグル人の間に横たわる根深い猪疑心と憎しみの構図は存在せず、ウイグル人の子供が漢人の同級生の家に気軽に遊びに行くなど、牧歌的な往来もあったという。
  「だが、子供心に傷ついたのは、漢人の大人から蔑まれることだった」
 保育園に通っていた頃、漢人の女の子が火が付いたように泣いていた。 泣きやまない子にイライラした保母さんは、 「そんなに泣くと『哈老維( ハウラオウエイ )』 があなたを掴まえて食べてしまうよ」 と怒った。 大分あとになって 「暗老維」 とはカザフ人( 「哈」 )とウイグル人( 「維」 )をバカにした言葉だと知った。 教育現場で教員が無意識に口にする偏見。 差別の連鎖はこのように大人から子供への 「教育」 で始まっていく。
 小学2年生の大晦日、漢人のクラスメートの家に遊びに行った。 食卓にはご馳走が並んでいる。 一緒に御飯を食べようと誘われたとき、 「豚肉以外のものなら」 と遠慮がちに言うと、同級生はウイグル人の生活習慣を本当に知らなかったのだろう、 「どうして豚肉を食べないの?」 と不思議そうに聞いた。 「イスラム教の教えでね、僕たちは豚を食べないんだよ」 と答えようとしたとき、同級生の父がアニワルの言葉を遮り、 「豚は彼らの先祖だから喰わないんだ」 と言い放った。
 漢人は自らの先祖を龍( ドラゴン )だと高言する。 漢人の祖先は龍で、ウイグル人の祖先は豚……。 「漢人の目にウイグル人は劣等民族と映っているのかもしれない」。 少年は心底傷ついたが、悔しさをバネに 「漢人に負けるものか。 僕は劣等民族じゃない」 と、猛勉強するようになった。
 父母と話す言葉( ウイグル語 )と学校で使う言葉( 漢語 )は文法も宇も違い、漢人とは習慣も宗教も顔かたちだって違う。 常々 「ヘンだなぁ。 なぜウイグル人は中華人民共和国の少数民族なんだろう」 と疑問を抱き続けていたが、当時は文化大革命の真っ只中。 インターネットどころか書籍さえ手に入らない時代、何かを知ろうにもどうにもならなかった。
 学校の 「中国歴史」 の教科書には、どこにも新疆とウイグル人に触れる記述がない。 授業の最終日、 「先生、どうして新疆について書いてないのですか?」 と訊ねた。 漢人の教員は 「それはね、昔、君たちは外国人だったから」 と答えてくれた。 その言葉を聞いて、少年は無性に嬉しくなって、家に帰るなり大きな声で叫んだ。 「あのね、僕たちは外国人だったんだって。 先生がそう言ったんだ。 かあさん、どうして『外国人』 が中国人になったのかなぁ?」。 文革期、政治的に問題があれば、それは死にも直結した。 母は狼狽し、 「しーっ。 なんて不用意なことを言うの。 気を付けないと」 と息子を抱きしめ、慌ててロを押さえた。
 医科大学に合格し、医者を目指していた頃、初めて 「東トルキスタン分裂主義勢力」 という言葉を耳にした。 中国では面白いことに、ある情報が共産党によって伏せられれば伏せられるほど、人々の間で素速くロコミや 「内部」 で伝わっていく。 「どうやって東トルキスタン分裂主義分子を打倒制圧したか」 が書かれた内部資料を目にしたとき、世の中には東トルキスタン独立を目指す組織が地下に存在していると初めて知った。


不平等の国にはいたくない
 1991年、鉄道局付属病院の医者となってからは、 「大漢族主義」 の壁に何度もぶち当たった。
 アニワルの職場では、専門を同じくする8人の医者が一つの広いオフィスを使っていた。 ある日、オフィスに1人の看護婦が入ってきて、医療に関する質問をその場の医者にした。 仕事を始めて間もなかった彼は黙っていたが、誰も答えないので応対すると、その漢人看護婦は 「あら、『吃羊脳子的』 ( いつも羊肉ばかり喰ってる者の脳味噌 )にしては、このひと意外と賢いじゃない?」 と呟いたのだ。 医者は7人が漢人で、アニワル1人がウイグル人だった。 無意識に言葉として表れる民族蔑視に立腹し、 「豚の脳味噌と羊の脳味噌はどっちが賢いと思う?」 と 「難題」 を吹っかけると、ある女医が 「まあまあ」 と、その場をなだめた。
 90年代半ばぐらいまで中国では、それぞれの機関に勤務する労働者に、所属機関から住居を割り当てる制度があった。 勤務先の病院では、漢人の医者には2LDKの部屋を一律に割り当てていたが、アニワルは夫婦と子供の一家族で1LDKの部屋しか分配されず、毎年広い部屋の分配を待った。 1994年に書いた乳腺癌の早期発見についての論文が医学界で高く評価され、それから学会に参加するためウルムチを離れる機会が多くなると、 「住宅割当会議のとき不在だった」 などの理由で分配を拒否され続けた。 「もうこんな不平等な国には居たくない」 との思いが募った。
 鉄道局付属学校の共産党委員会書記だったアニワルの父は、中国では党員でなければ安定した生活も出世も富の分配もあり得ないと誰より知っていたから、息子の将来を思って入党を勧めた。 さして乗り気ではなかったけれど、漢人知識人の場合、大抵入党は簡単に許可されているから、勤務先の病院であまり深く考えることなく申請書を提出すると、 「次の党支部拡大会議に招聘するから、その時、入党の決意を語るように」 と命ぜられた。 ところが運悪く、その審査会議の日、アニワルは各番医で緊急手術を必要とする急患がやって来た。 病院には 「急患は必ず当番医が対応する」 との規定があったから、彼は会議に出ず、躊躇することなく手術室に向かった。
 次の日、党委員が彼の机までやってきて、 「どうして昨日の会議に参加しなかったのだ? 党が大切なのか、おまえ自身の用事が大切なのか、どっちだ、言ってみろ」 と非難を始めた。 「当番医だった」 と弁明すると、 「他の医者にやらせたらいいじゃないか」 と嘯( うそぶ )かれた。 彼は医者として、到底それを受け入れられなかった。
  「次回は絶対に参加するように」 ときつく注意されたが、2回目の会議も、運悪く当番医があたり、急患がやってぎた。 今度は前回より病状が深刻で、2~3時間のうちに手術をしなくては確実に命を落とす重体だった。 ウダウダと欠席について批判された光景が一瞬頭をかすめたが、すぐに気分を入れ替え、3人の党員の医者にも準備させ、オペ室に向かった。 何時間もかかる大手術となった。
 翌朝、疲れ切っていたアニワルの所に、くだんの党委員は 「入党申請書」 を突き返しにきた。 かくして彼は、党から拒絶された。  
 アニワルの政治亡命後、彼の母は周囲から息子について批判されると、 「私は、息子を民族学校ではなく漢人の学校に行かせ、漢人の子供と同じように養育した。 それなのに、ああなった。 息子はあなた達が育てた結果なのだ」 と反論しているという。
 鉄道局の病院で働いていた時、ウルムチでバス爆破事件が発生、多数の死傷者が出た。 犯行声明を出したのは、共産党政権や漢人の東トルキスタン支配に疑問を呈する中央アジアを拠点とした組織だった。 朝、百名を超える医師や看護婦が電話で呼び出され、現場と病院で手当にあたった。 殺気だった救急医療の現場……。 その時、ある漢人の医師が 「はやくウイグル人は我々と同化すべきだ。 そうすればこのような事件は起こらない!」 と腹立たしげに叫んだ。 救急チームに集まった医者の中で、アニワルだけがウイグル人だったから、その場にいた全ての漢人の視線が、彼ひとりに注がれた。 気まずい雰囲気が場を包んだ。
  「確かに……あなたがた漢人は『偉大なる』 民族だ。 『日本鬼子』 が中国を侵略したとき、あなた達は8年の抗戦を経て勝利した。 我々ウイグル人も、いつの日か、きっとそれに倣うだろう」
 自分が発した一言で、場の空気が一瞬にして凍りついてゆくのをぴりぴりと肌で惑じた。
 この事件後、アニワルは少し荒れた。 漢人社会の中で漢語を流暢に使いこなし、技術や教養を身につけて仕事をこなす有能なウイグル人は、同族からの 「風当たり」 も強い。 両方から板挟みになってしまうのだ。 幸いにもアニワルには彼の苦悩を理解してくれる漢人の友がいた。 高価で入手しづらいマオタイ酒を開けて、慰めてくれた。 友は言った。
  「70年代、いったい誰がソ連の解体を予測できたろう。 永遠に続く体制などありえない。 君たちが国を造ったその時、どうか平等の理想の国を造り、新疆に愛着のある漢人を迫害しないでおくれ」
 96年、主任医師( 管理職 )になるための試験を受けたアニワルは、理論、技術、手術知識など医学試験は全て合格したが、外国語だけは合格点に達していなかった。 当時の新疆では、少数民族は大学入試などで漢語を外国語として試験を受けられるとの規定があったが、ウイグル人の医者の場合それは適用されず、母語のウイグル語と中国の公用語の漢語、それ以外にもう一つ必ず外国語をマスターしなければならなかった。 これを理由に、彼は外国語修得のための語学留学を決意した。 実際のところ留学は口実で、ヴイグル人と同じテュルク系民族の国に渡り、医者を続ける道を模索したかったのだ。
 パスポートを取得すると、中央アジアのウズベキスタンヘ渡航し、わりとあっさり当地の病院で外科医の職を得ることができた。 一旦ウルムチに戻って鉄道局病院の辞職手続きをすませ、喜び勇んで再びウズベキスタンに戻ったところ、ウズベキスタンは外国籍の者を簡単に雇用できないよう政策や法を変えていた。 就職を約束した病院の院長は、すまなそうに謝った。 ポケットにはわずか50ドルしか入っていなかった。 しかたなくツテを頼って商売の手伝いをしながらタシュケントで6ヵ月間を過ごし、少しお金を貯めて、トルコに渡った。
 イスタンブルに着くと、すぐに東トルキスタン基金会のオフィスヘ行き、イスタンブル大学外国語学科にある3ヵ月間のトルコ語修得コースを紹介してもらった。 トルコ語とウイグル語はともにテュルク系の言語だから、ウイグル人は3ヵ月ほどトルコ語を学べば日常会話は支障なく話せるようになると言う。 語学研修がすむと、中国で学べない外科知識を学ぼうと、医科大学大学院の受け入れ先をさがし始めた。


ガタガタと震えた
 そんなある日、ウイグル人の知人が 「ある英国人記者がウイグル人医師を捜している。 会ってくれないか?」 と連絡してきた。 紹介された英国のテレビ局の記者は、新疆の疾病状況や癌の発生率などに並々ならぬ関心を抱いており、アニワルの所に連日通ってきた。 そして3日目に、 「新疆に観光客を装って潜入取材し、核実験被害の実態をルポしたい。 ガイド兼通訳と偽って、あなたも一緒に行ってくれないか?」 と懇願された。 医者であるアニワルは英国人記者よりずっと現地情報に詳しいばかりか、ウルムチにいたときからこのテーマに関心を抱き、医療に携わる者の良心として被害状況を広く世界に公開したいと願っていたのだが、問題は彼の 「中国籍と中国パスポート」 だった。 彼にとって告発への荷担は、自らに甚大な不利益や災難をもたらす事を意味する。 外国人記者に 「協力しましょう」 と返答しながら、その日の晩から眠れない日々が続いた。 「逮捕」 「禁固20年」 「拷問」 「投獄」 などの単語が頭をよぎり、ガタガタと震えがきた。
 98年7月にトルコを離れ、北京に向かった。 同便に搭乗したのは、英国チャンネル4のディレクター、リチャーード・ヘリングとスチュアート・タナー、癌を専門とする英国人女性医師のローラ・ワトソン、そして1人のカメラマン。 アニワルは飛行機に乗ると却って恐怖感は消え腹が据わったが、反対に記者たちは、不安感をかき消すためであろう、1本空いたらまた1本とスチュワーデスを呼んでは酒を頼んで絶え間なく飲み続け、北京に到着したときはすっかり酔っぱらっていた。
 一行5人は、核実験施設のある楼蘭遺跡近くの 「ロプノール」 ( 羅布泊 )をめざす方法を模索した。 実験地近辺の土や樹木を採取し、それらから放射性降下物( フオールアウト、いわゆる 「死の灰」 )や炭素などを検出して被曝状況を調べたかったからだ。 旅行社に楼蘭遺跡を巡るツアーをアレンジしてもらおうと思ったが、問い合わせると1人につき10万人民元という法外な価格を要求され、この方法は断念せざるを得なかった。 記者たちは国際ライセンスを持っていたので、トルファンで車を惜りて交代で運転し、アニワルがツーリストガイドを装って、可能な限り裏道を走り、自力で目的地まで行くことにした。
 中国の核実験基地の所在地を、日本ではよく 「ロプノール」 と表記するが、その土地の正しい名称は 「馬蘭」 という。 「馬蘭」 の地名は、中国が出版する詳細な地図集にさえ表記されていない。 そこはスウェーデンの探検家スウェン・ヘディンの『さまよえる湖』 で知られるロプノールより西側で、新疆バインゴル蒙古自治州に属し、観光客がよく訪れる大都市コルラかちは僅か320キロの距離だ。
 核開発に着手した1950年代後半から60年代前半の中華人民共和国は、 「アメリカと対等に渡り合うための政治手段としての原子爆弾開発」 に躍起になり、毛沢東の号令のもとに行った総動員体制~大躍進運動では大勢の餓死者を出した。 人命や安定した国民生活より、共産党軍の軍事力増強を優先したのである。
 原子爆弾の自主開発に成功した1964年から、核実験一時凍結を宣言した1996年までの32年間で、中国は計46回( 諸説あり45回とも言われる )の実験を行ない、現在では、約450基の核兵器が各地の軍事基地に配置されている。 中国が行った核実験の回数は、米・ソ( 現ロシア )など他の核保有国に比べると遥かに少ないが、人の住む村までさほど距離のない場所で1980年まで地上実験を繰り返しているので、環境や人体に影響が出ないわけがない。 アニワルは言う。
  「英国国際科学調査委員会が中国の核実験の影響と思われる放射能を探知したのは、5千マイル先までだと聞いた。 実験された核爆弾の中には、広島で投下された原爆の3百倍の威力の物さえあったという。 中国政府は『核実験による周辺地域への影響はない』 と主張し続けているが、カザフスタンなどの周辺諸国まで実際に『死の灰』 は及んでいる」
 鄧小平の下で改革開放政策が始まり、中国が多くの外国人観光客を受け入れるようになった1980年代から実験を一時凍結した1996年までの間にも、この地では20回近く核実験が行われている。 いつだったか忘れたが、上海の安宿で聞いた、シルクロードへ一人旅に行った日本人青年の話が今も忘れられない。
  「ローカルバスに乗って南新疆をめざしていたところ、突然昼間なのにピカッと光るものを感じた。 その後、バスの中を見渡すと同乗者たちが皆、鼻血を流している。 その光景は滑稽にさえ思えた。 ところが、鼻に手を当てると自分も同じように血が出ているのに気づいた。 バスの中は騒然となった。 あの時、私は被曝したのかも知れない」
 新疆の地で被曝したのは、中国人だけではないだろう。 中国政府は核実験を予告せずに行っていたのだから。
 2005年春から馬蘭核実験基地は、青少年のための 「愛国主義教育基地」 の1つとして部分的に見学が許可され、内部の博物館には 「自力で原爆を開発した」 歴史が誇らしげに展示されるようになった。 基地は 「村」 と呼んだ方がよいくらい巨大で、砂漠に囲まれたこの基地に配属された兵士や労働者たちは、どこにも逃げて行かれぬようになっている。 併設の 「烈士陵園」 には基地で死亡したおびただしい数の者たちが埋葬されており、けっして 「輝かしさ」 だけで核実験場を語ることはできないと窺い知れるのだ。
 中国の核兵器の規模や現状については、茅原郁生編『中国の核・ミサイル・宇宙戦力』 ( 2002年、蒼蒼社 )に詳しいめで参照してほしい。


潜入した村では
 アニワルと英国人一行がカメラを回したのは、一つの村だけではなかった。 実験地の砂漠を取り囲むように点在する南新疆のオアシスを転々と廻り、原爆症と思われる人々を訪問した。 被曝調査をしていることは伏せていたので、なかなか医者に掛かる機会のない田舎の農民たちは、訪問を手放しで歓迎してくれた。
 農民たちは 「基地では、漢人の住む地の方向に向かって、つまり西から東に風が吹く時は核実験をしない。 西に吹いた時に行っていた」 と憤る。
 新疆ではグルジャやウルムチ、トルファンなどは山に挟まれているから、他地域と比較すれば放射能の影響はまだ少ない方だが、遮る高い山が無く砂漠を越えて風が吹いてくる風下の方向、つまり基地から南西のコルラ・ホタン・カシュガル方面は、直接、放射性物質が降り注ぐ。 ある村では、生まれてくる赤ちゃんの8割が口唇口蓋裂だった。 ある南新疆の村々では、内臓異常のため腹や喉など身体の一部が肥大化して瘤を持った者がたくさんいた。 また、先天性異常で大脳未発達のため、歩けず話せない障害児ばかりが生まれる村もあった。
 新疆ウイグル自治区の村々では、奇病の発生原因が何か分かっていても、貧困のため転居もできず、汚染された水を飲み、 「死の灰」 の残る土壌で農業を営んで生きて行かざるを得ない。 患者は、有り金をはたいてウルムチなどの大都市に出て病院に掛かっても、高額の医療費と長い療養生活が必要だと医者から告げられると、たとえ深刻な病状であっても大半が治療を締めて村に帰ってしまう。 被曝者は静かに死を待つしかない。
 南新疆での農村調査を終えた一行は、区都ウルムチで文献資料収集にあたった。 アニワルは昼間、大学に保存されている内部資料や病院のカルテ、図書館の資料等を収集し、夕方、記者たちに資料を渡した。 記者たちは病気になったフリをして部屋にこもり、昼間寝て、夜、資料のフィルム撮影を続けた。 まるでスパイ映画 「007シリーズ」 の真似事をしているかのようだった。 ホテル前に停まっているタクシーは絶対利用せず、待ち合わせ場所もしょっちゆう変え、用心に用心を重ねた。
 収集した1966年からのデータを分析すると、癌の発生率は核実験とともに年々上昇し、特に伸び率が高いのが白血病とリンパ癌と肺癌だった。 癌の中では圧倒的に血液癌( 白血病 )が多く、癌患者の90パーセント以上が白血病である。 コルラやウルムチの総合病院には、白血病患者が大勢押し寄せた。 カシュガルやホタンからも、白血病患者がウルムチの総合病院に来た。 また、十二歳以下の子供が肺癌や肝臓癌に冒されて診療を受けに来たケースもあった。
   収集した文献資料は、原本を残さないよう処分して、持ち出しはフィルムだけにした。 そのフィルムや収集した土などを記者たちがどうやって英国に持ち帰ったかは、アニワルには知らされなかった。 記者ではない別の人物に託したのではないかと思われる。
 撮影隊一行は、中国から出国する時、 「もしアニワルが逮捕されたら……」 と気が気ではなかったらしい。 無事に飛行場の搭乗手続きを終えると、アニワルはトルコヘ、取材班は英国へと別便で帰途についた。 アニワルはウルムチに住む家族にさえ取材が目的で帰国していたことを告げず、イスタンブルに着いてから国際電話をかけて、トルコに戻ったことを伝えた。
 トルコに戻って間もなく、イスタンブルの病院で外科医の仕事を見つけた。 給料も待遇もよく、これから安定した生活を送れると思っていた矢先だった。 番組が放送された数カ月後の1999年3月、アンカラに駐在する台湾入記者から 「来月李鵬がトルコを初訪問するらしいが、知っているか?」 と連絡を受けた。 「トルコと中国は貿易関係の強化を図るようだ。 政治亡命者は身の安全を考えた方がいい」。 トルコ在住の亡命ウイグル人に激震が走った。 もし両国間に友好条約が締結されたら、 「犯罪者」 の引き渡しが始まるかもしれない、そうなれば政治犯までなんやかや理由を付けて送り返されるかもしれない…。 アニワルはすぐに国連難民高等弁務官事務所に駆け込み、政治亡命を申請した。
 政治亡命証明書はすんなり入手出来たが、安心してはいられなかった。
  「何かが起こったとき、中国国籍の私をトルコ政府は保護できないだろうと思った。 中国の特務は目的のためなら手段を選ばないと、政治亡命者はよく理解している。 私の生存を保障しでくれる安全性の高い国に渡りたかった」
 トルコを離れる覚悟を決めた。
 中国がアニワルを送還させるならば、その最大原因はイギリス人とともに制作した原爆被害告発のドキュメンタリーだ。 トルコの英国大使館に駆け込んだ。 資料を見た英国大使館員は、5分も待たず、その場でビザを発給してくれた。 そして、ばたばたと何の準備もせずに英国に渡った。 一年間の契約で借りていた部屋も中途で引越したので、未払い分を残したままだったけれど、大家さんはドキュメンタリーを見て 「あなたは立派な仕事をした。 契約の残りの家賃は請求しないから」 と慰めてくれた。
 ロンドンに来てから、撮影メンバーと会ったのは一度だけだ。 彼は通訳ガイド料をもらって雇われただけで、ドキュメンタリー撮影に出資してはいなかったから、手元に撮影した資料のフィルムを保持する権利はなかった。 資料はテレビ局が保管し、彼の手元には一部も無いという。
 アニワルは、 「新疆では、生物化学兵器実験も行われていた疑いがある。 それが本当なら医者として到底許すことはできない」 と嘆息する。 例えば1980年、新疆では二度にわたって奇病が流行り、当局は新疆の南と北を結ぶ路線を封鎖するなどの措置をとったが、それでも多くの人が死んだ。 真の病名は公表されず、発生順に 「一号病」 「二号病」 と番号で呼ばれた。 この奇病について、イギリス亡命後偶然手にした書籍『バイオハザード』 に、詳細が語られていると知った。 著者のカザフ人医師アリベックはトムスク( ロシア中部の州 )のメディカル・インスティテュートを出て、ソ連時代に同国の研究所で生物化学兵器を開発実験していた医学者で、1992年に訪米して政治亡命を果たした人物だ。 この回想録の中には、ソ連諜報部が新疆の奇病流行について調査をしていたこと、ソ連はそれを中国の生物化学兵器実験の失敗か、居住民をモルモットにした実験だと判断していたことが記されている。
  「当時、自治区政府は『メッカに巡礼に行った者たちが持ち帰った水に病原菌が入っていた』 と発表したが、巡礼者は世界各国から来ているのだから、中国だけで伝染病が流行するわけがない」


痛い。 私の足を切って!
 1999年頃、中国中央電視台では核兵器を開発した先駆者たちを紹介するドキュメンタリー番組を、何度も繰り返し放送していた。 中国の老科学者へのインタビュー場面では、何の迷いもなく誇らしげに滔々と開発について語る口ぶりに、愕然としたことを今も鮮明に記憶している。 ヒロシマに核を落とした後、アメリカの科学者や飛行士の中には精神を病む者が続出したのだが、そうした 「情報」 は中国からは伝わってこない。
 ドキュメンタリー『シルクロードの死神』 には、生まれた時は四肢に問題はなかったが、歳をとるにつれて骨が自然に折れて変形する関節異常の奇病を患った、17歳のウイグル人少女が紹介されていた。 あまりの痛さに泣き続けるので、母親が身体をさすろうとしたら、腫の骨が飛び出ていた。 「痛い。 私の足を切って。 お母さん、もう死にたい」。 救いを求める少女に、母親は為す術がない。 「死を待つしかない子供たちに、親は『これは神様の定めた運命なのだ』 と説明するしかない」 と、悲しいナレーションが入る。
 アニワルは 「医者としてやりきれない」 と頭を抱えながら、次のように語った。
  「中国では被曝者が団体を作ることも抗議デモをすることも許されないし、国家から治療費も出ない。 中国政府は『核汚染はない』 と公言し、被害状況を隠蔽しているので、海外の医療支援団体も入れない。 医者は病状から『放射能の影響』 としか考えられなくとも、カルテに原爆症とは記載できない。 学者は大気や水質の汚染調査を行うことさえ認めてもらえないから、何が起きているのか告発するごともできない。 このように新疆では、原爆症患者が30年以上放置されたままなのだ」
  「被爆国日本の皆さんに、特に、この悲惨な新疆の現実を知ってほしい。 核実験のたび、日本政府は公式に非難声明を出してくれた。 それは新疆の民にとって、本当に頼もしかった。 日本から智恵を頂き、ヒロシマの経験を新疆で活かすことができればといつも私は考えているけれど、共産党政権という厚い壁がある」
 そう言うと彼は、深い溜息をついて、天を見上げた。