国際社会の大きなミステイク

 第二次世界大戦の終結は、本来、世界平和をもたらすはずだったのに、グローバル化の時代といわれる今日にいたるまで、現実の世界には戦争や紛争が絶えることなく起こっている。 戦後のアジアにおいては朝鮮戦争やヴェトナム戦争の深刻な悲劇をもたらし、ヨーロッパにおいては東欧の悲惨やベルリンの壁に象徴された東西分裂を招来したばかりか、現在でも世界のいたるところで紛争が続いている。
 戦後世界の到来が世界に平和と安定をもたらしたのでないことは、最近の中東情勢を見ただけでも明らかであろう。 まさに、サミュエル・ハンティントン教授が90年代初頭に 『 フォーリン・アフェアーズ 』 誌( 1993年夏号 )で予測し、国際論壇で大きな話題になったように、21世紀はまさに 「 文明の衝突 」 の時代になっているといえよう。
 ハンティントンはその際、「 儒教-イスラム・コネクション 」 ( The Confucian-Islamic Connection )という言葉を用いて、独裁的な儒教国家、すなわち北朝鮮や中国と、それに結びつくイスラム原理主義国家、リビア、イラク、シリア、パキスタンなどが世界の平和を脅かす問題国家であろうと示唆していた。 まさに慧眼けいがんであった。
 このような国際社会の激動のなかで、戦後世界に巨大な鉱脈のように存在してきた米ソの冷戦構造と、そのなかで1960年代から80年代まで続いた社会主義陣営内部の深刻な抗争としての中ソ対立は、国際政治の現実に実に大きなインパクトを与え続けてきた。
 米ニクソン政権下で1971年7月に実現した、キッシンジャー補佐官の北京隠密訪問と翌72年2月のニクソン米大統領の訪中は全世界に衝撃を与え、いわゆる米中接近をもたらしたが、今日の時点で冷静にふりかえると、それはソ連と激しく対立していた中国のきわめて巧みな外交選択によって実現したものであった。 その代わり中国内部では、実に深刻な党内闘争・権力闘争が起こり、その結末が林彪異変だと私はみなしている。
 アメリカにとってはスターウォーズともいわれたように、米ソ間の戦略兵器バランスが深刻化しつつあり、戦略兵器制限交渉( SALT )も順調にはかどらず、まさに 「 敵の敵は味方 」 という価値意識を米中両国が共有したからでもあった。
 しかし、中国が国際社会で正統な存在感を得たのはまさに米中接近の前年、1971年秋の国連総会で 中国( 中華人民共和国 )を国連加盟国とし、台湾( 中華民国 )を国連から追放するというアルバニア決議案が多数で可決された からにほかならない。 しかし ここにこそ、国際社会が犯した重大な誤りがあった といわなければならない。




 まず、当時のアルバニアという国の実情と位置を振り返ってみよう。 アルバニアは東欧の小国であるが、共産党( アルバニア労働党 )の一党独裁体制下にあり、独裁者エンベル・ホッジャの圧政が国を覆っていて、すべての宗教が禁じられていた。
 しかも、アルバニア労働党は1960年代初頭にはじまった中ソ論争では、毛沢東信奉者のホッジャ第一書記の指導で常に中国共産党の 「 手先 」 のような役割を演じ、当時のソ連を敵視し、隣国のユーゴスラヴィアの社会主義を 「 修正主義 」 として攻撃していた。 東欧の民主化による社会主義体制崩壊後は経済の混乱が著しく、国民はいまも疲弊のなかで苦しんでいる。
 そのアルバニアを中国は一貫して支援し、国際共産主義運動での多数派工作に利用したばかりか、非同盟諸国を中心とする国連での多数派工作にも最大限に活用してきたのであった。 このようなアルバニアに中国を国連に加盟させ、五大国としての常任理事国の席を与える決議案の上程者としての資質があるのかが問われるべきであった が、世界情勢の大きな変動期にあった当時の国際社会は、そうした判断力を失していた。
 のみならず、いかに蒋介石・蒋経国独裁体制の国家であったとはいえ、第二次世界大戦の戦勝国であり、国連の創設メンバーとして常任理事国の一員であった台湾( 中華民国 )をあのような形で国連から追放するというアルバニア決議案が、当時の国連加盟国131ヵ国の過半数を上回る多数で可決されたところに、大きな誤りがあったといわなければならない。
 アメリカは台湾を加盟国に残すための 「 二重代表制決議案 」 を用意はしていたものの、アルバニア決議案の可決によって採決にはいたらなかった。 日本は国連加盟国の一員であるばかりか、台湾との関係では国連のどの加盟国に比しても深い関係にあり、しかも台湾とは正式な外交関係を持っていたにもかかわらず、台湾を擁護する活動には一切、加わらなかった。 こうして、当時の台湾の政権、つまり、中華民国政府も国連からの自主的な脱退を余儀なくされたのであった。
 当時の台湾は、中華民国が全中国を統治し代表するという虚構に依っていたのであり、やがて 「 中華民国の台湾化 」 を明示した1980年代末の李登輝元総統の出現などは予測不可能であったところに、当然、問題が残っていた。
 その結果、全世界的視野では確固たる中級国家としての地位にあり、政治も経済も外交も軍事も、そして教育も、どの面から見ても紛れもない国家であるばかりか、民主化という点でも、今日では中国大陸の民衆も羨む民主主義の国家が、2300万人の成熟した国民を擁しながら、国際社会では正当性の根拠が薄い実態として存在しているのである。 そして、このような大きな過ちの一端を、日本外交もこれまで担ってきているのである。


台湾との断交は歴史的な過ち

 来る2012年9月29日は日中国交樹立40周年であるが、日本政府は日中国交の代償として、台湾( 中華民国 )との外交関係をこの日に断絶した。 具体的には、当時の 田中角栄首相 と大平正芳外相による北京での日中共同声明と同時に、大平外相によって日華平和条約の終結が声明されたのである。
 1952年4月28日に台北で締結された日華平和条約は、その前文に 「 歴史的及び文化的のきずなと地理的の近さとにかんがみ …… 」 とあり、この条約によって日本と中華民国との戦争終結が確認されたばかりか、両国の友好親善が図られることになることが明記されており、わが国にとっては他のいかなる条約よりも重要な二国間の公約だといえよう。
 台湾との歴史的かつ文化的な深い絆と地理的な近さについては、ここに見た条約前文のとおり、いまさら言うまでもないが、わが国は台湾( 中華民国 )との間に日華平和条約を擁して正式な外交関係を保持していたのに、それを 一方的に断交した のであった。 蒋経国総統が日華問の断交に際し、『 文藝春秋 』 1972年10月号に 「 断腸の記 」 を書かれているが、むべなるかなと言わねばならない。
 このような過去があったにもかかわらず、現台湾政権の馬英九まえいきゅう総統は去る8月5日、日華平和条約発効60周年記念の式典を台北市内で催している。 そこで 「 東シナ海平和イニシアチブ 」 構想を提起した背景には、尖閣諸島の領有権を中国側と競おうとする意図とともに、「 尖閣諸島は日本固有の領土だ 」 と明言されている李登輝元総統との見解の相違を示そうとした意向があったであろうことは否めない。 いずれにせよ、台湾( 中華民国 )にとって日華平和条約は、戦後東アジア政治における大きな要だったのである。
 ところで、私はかつて中ソ対立を研究テーマにしていたこともあり、1978年に締結された 「 覇権条項 」 入りの日中平和友好条約を批判する立場から、北方領土問題でもしばしば発言してきた。 北方領土問題は爾来30余年を経た今日でも未解決であるが、当時の私の主張は、中ソの深刻な対立の時期こそ北方領土問題を解決すべきチャンスであり、日本は北方領土の四島の主権は主張しつつも、当面は歯舞、色丹の二島の返還を実現し、択捉、国後を含む北方領土四島を共同利用に持ち込むべきだというものであった。
 しかし、当時の日本政府・外務省は 「 中国には甘くソ連には厳しい 」 戦後日本外交の習性どおりに、中国の主張を容れて日中平和友好条約を締結し、ソ連側を怒らせて対ソ外交ではなんらの成果もなかった。
 当時の福田政権のなかでは、福田赳夫たけお首相白身はかなり慎重であったが、これまたシナリオを持たずに日中外交を担うことになった園田すなお外相の急ぎ足の外交姿勢も災いして、日中平和友好条約をほとんど無条件で締結したのであった。
 中国がそれほど反ソ外交を必要としているならば、日本は中国にいろいろな要求を出すべきであるにもかかわらず、なんら得ることなく、すっかり手の内を見せてしまったと言ってよい。




 その結果、ソ連は日本に対してまったく何も提供することなく終わった。 今日問題になっている北方領土の問題も、このときに対中・対ソ戦略を練ってソ連に強く要求すれば四島返還もあり得たのではないか、と私は思う。 少なくとも二島は返還を実現し、あとの二島についてはその後の領有権を日本が主張しつつ共同利用するというような選択肢も当然あり得たにもかかわらず、それさえも実現せずに今日にいたっているのである。
 去る6月中旬に、わが国の野田佳彦首相はメキシコでのG20首脳会談に際して、ロシアのプーチン首相とようやくはじめて短時間の首脳会談に臨んだが、野田首相の言う 「 法と正義 」 に照らせば、日ソ間( 日口間 )の最重要な出来事は、ソ連が対独戦争勝利後に日ソ中立条約に違反して敗戦直前の日本に対して参戦し、しかも長崎に原爆が投下された8月9日にソ満国境を越えて攻撃を仕掛け、その直後に、わが国の北方領土を不法占拠したことである。
 その根拠を与えたのが、米英ソ三国首脳による1945年2月のヤルタ秘密協定であった。 私は、ヤルタ協定についてはいまでも講義の冒頭に、「 千島列島はソ連に引き渡される 」 などの英語の原文全体を示して、その不法と非正義を日本の若者たちに教え続けている。 しかもこの協定については、当事国のブッシユ大統領( 当時 )も、2005年5月にラトビアで催された対独戦勝60周年式典に出席して、ヤルタ協定は 「歴史の最悪の誤り」 であったと認めている ところである。
 わが国の外務省もロシア問題専門家も、北方領土問題についてはヤルタ協定にまで遡り、スターリンの対日戦略を糾弾することからはじめるべきだ、と私は考えている。 ただ、残念ながら日本は敗戦したのだから、北方四島の返還については、主権を一貫して唱えつつ、まず二島返還を実現したうえで四島の共同利用を図るべきだというのが、当時の私の意見であった。
 このように、国家間の条約を一方的に無効にして対日参戦した当時のスターリンのソ連を批判すべき歴史的根拠をわが国は有しているのだが、その日本が台湾に対して日華平和条約を一方的に廃棄して国交を断絶するという挙に出たのであった。 いかに日中国交の代償であったとはいえ、「法と正義」 に照らしても、外交上はしてはならないことであった。


拙速外交の重大なツケ

 いまからちょうど40年前の1972年9月29日、日中国交を一気呵成いっきかせいに果たした田中角栄首相は、大平正芳外相とともに意気揚々と帰国した。
 翌9月30日午後に大平外相を羽田空港に出迎えた当時の法眼晋作ほうげんしんさく外務事務次官は、われわれ国際関係懇談会( 内閣官房長官の私的諮問機関 )のメンバーが待ち受ける部屋に来られて、「 今回の日中交渉は100点満点どころか120点をつけられます 」 と、開口一番に自画自賛された。 法眼次官の発言を聞いていた私は、自分の見方や印象とのあまりに大きな違いに唖然としたことを、つい先日のことのように想い出す。
 一方、中国側の毛沢東主席は自分の居室を訪ねさせた日本の領袖りょうしゅうに、記念品として 『 楚辞集注 』 の複製本を手渡し、田中首相はうやうやしくそれを頂戴してきたのであった。

 中国古典に関しては右に出る者のない大碩学せきがく、亡き安岡正篤やすおかまさひろ師が嘆いていたように、汨羅べきらに身を投げた屈原くつげんの故事にかかわる 『楚辞集注』 の贈呈は、まさに亡国のドラマを相手方に強制したに等しいこと だったのに、息せききって訪中した田中首相や当時の外務省首脳がそんな含意を見抜く知識を待ち合わせるはずもなく、中国の意のままに操られて 「日中復交三原則」 を日中共同声明でも承認し、台湾( 中華民国 )を一方的に切り捨て てしまったのである。
 この拙速外交の大きなツケに、日本は今日も高い代価を支払わされているばかりか、それほどの代価を払ってきたのに中国側はこの40年間、日本に対する敬意や本物の友情を示すことは一切なかった。 日中国交樹立は、はたして正しい選択だったのだろうか。
 周知のように、最近の日中関係においては尖閣諸島の問題がクローズアップされているけれど、いまから10年前の5月には、北朝鮮を脱出した難民が瀋陽しんようの日本総領事館に駆け込んだのに中国の官憲が無理やり彼らを連れ戻したという 「 瀋陽事件 」 が発生していた。
 「 瀋陽事件 」 はたまたま日本のテレビの映像が伝えられたからこそ真相がわかったのだが、それがなければ、この事件も隠蔽されたまま 「 日中友好 」 外交のなかで葬り去られてしまっていたかもしれない。 しかし、「 瀋陽事件 」 での紛れもない映像によって、日本国民の多くは共産党独裁国家・中国の実像と 「 日中友好 」 外交の現場を見てしまった。 「 日中友好 」 外交は 「 対中国位負け 」 外交であり、「 策罪 」 外交は 「 日中癒着 」 外交にはかならないことも知ってしまったのである。
 しかも、過去40年間も 「日中友好」 外交を続けてきたにもかかわらず、「靖國」 問題、政科書問題、歴史認識問題、尖閣諸島問題などの日中間の懸案は、瀋陽総領事館での主権侵害問題ともども、何一つ決着してはいないのである。
 したがって、日中国交30周年では 「 日中友好 」 を称える1万3千人もの代表団が訪中したというのに、日本人の国民感情はすでに冷え切ってしまっていた。 中国毒餃子事件に見られたように、中国産の食品や漢方薬の危険が報じられたり、滞日中国人犯罪の増加が重なったりしたことも大きな原因であったろう。
 尖閣諸島の問題一つをとっても、中国側の主張にはまったく根拠がない。 今年は日中国交40周年だというのに、どういう形で40周年を祝福するというのだろうか。 ここにも拙速外交のツケが残されている。


チャイナースクールの責任

 「 瀋陽事件 」 が証明したように、「 日中友好 」 の美名に隠れた 「 日中癒着 」 の体質は、実は日中国交正常化以前から日本政府・外務省内に存在していた。 対中国外交に関しては、どこの国の外交官なのかわからないような外務官僚が省内を跋扈ばっこし、いわゆるチャイナースクールと呼ばれるグループを形成してきていた。
 そもそも、中国語研修を選んでキャリア外交官( 上級職 )としての道を歩む人々を中心とする外務省内のチャイナースクールは、そこに中国語研修組ではないキャリア外交官もときには加わった形で、アジア局( 現アジア大洋州局 )の中国課首席事務官 ― 中国課長 ― ( 香港総領事 ) ― アジア局長 ― 駐中国大使といったピラミッド構造によって、一元的に形成されてきていた。
 アジア局中国課は従来、モンゴルや香港・台湾も含む東アジア全域の外交を担当し、その首席事務官はきわめて重要なポストなのである。 首席事務官がやがて前述の中国課長、アジア局長、駐中国大使などになる場合が多く、わが国の対中国政策の決定を左右するからだ。
 そこで、次に歴代の中国課長を私の知るかぎりで見てみると、日中国交正常化以前( 佐藤栄作内閣時 )の1968年から、対中国外交の命運を決した国交樹立の時期を挟んで5年前後も異例の長期にわたって中国課長だった橋本ただし氏( のちアジア局長、駐中国大使 )が注目される。
 それより前の1963年10月、日本のその後の対中政策を決定づける 「 周鴻慶しゅうこうけい亡命事件 」 が発生した。 これは、来日した中国代表団の通訳・周鴻慶が台湾へ亡命しようとしたが、それが叶わず中国に強制送還された事件であったが、橋本氏はこの事件について、当時の外務省がうまく処理して本人を中国へ送り戻したのがよかったと得々と語っていたことがある。 このあたりにも、その後の外務省の対中国姿勢の片鱗が早くも表れていたといえよう。
 外務官僚から政治家になった加藤紘一氏( 元自民党幹事長 )は、アメリカと中国をはかりにかけて、日本は米中と二等辺三角形の位置にあるべきだと述べて多くの批判を浴びたが、その加藤氏は橋本課長のもとで首席事務官を務めていた。
 私は1969年から71年まで、外務省特別研究員として香港総領事館に在勤したことがある。 当時は日中国交樹立の直前、米中接近の時期で、外務省に出向した経験に基づいて、帰国後に 「 『 霞ヶ関外交 』 の体質〈 岐路に立つ日本外交 〉 」 という文章を 『 日本経済新聞 』 ( 1971年6月8日付 )に寄せたことがあった。
 そのなかで、わが国の中国政策決定過程を見ると 「 外務省の政策決定過程はあまりにも恣意的かつ不透明であるように思われる。 そうした不透明さのなかで問題が処理されるだけに、だれがどんな情報をだれに送り、だれがどんな情報をだれから受けて責任ある政策を決定するか、という政策決定過程における情報とコミュニケーションのチャンネルもまた不分明であって、これではとうていあの目敏めざと執拗しつようで、またテンポの速い中国外交の展開に十分対応できないように思われる 」 と書いたのだが、40年以上経った現在も、この体質は基本的に変わっていないのではないか。




 なぜ、このような事態を招くことになったのか。 まず外務省、とくにチャイナースクールの人々の歴史認識と思想性の欠如、そしてストラテジー( 外交戦略 )の欠如があげられる。 とくに、日中国交樹立以後の日中関係においては、常に強い戦略性を有する中国を相手にどのような外交戦略で対峙たいじし、どのような交渉力を身につけるべきかという意識や気構えがほとんどみられなかった。 「中国を刺激しないこと」 が唯一の外交思想と考える人々に、中国に対して 「戦略的思考」 で当たる意識や気構えが生まれるはずがない。
 橋本氏の2代前にアジア局長から駐中国大使になった中江要介氏は、いわゆるチャイナースクールではなくフレンチースクールだといってもよいのだが、日中間の歴史認識の問題などではチャイナースクール顔負けの親中国ぶりを発揮しておられた。
 1985年就任の中国課長・椎田邦彦氏はやがてアジア大洋州局長となって、李登輝元台湾総統の訪日に絶対反対を表明された人物である。 その前の中国課長が浅井基文氏( 1983年就任 )で、氏は日本共産党系のメディアで 「 日米安保は要らない 」 といった論調をしばしば発表していた。
 1977年に香港総領事に就任する前には、内閣調査室次長でもあった野田英二郎氏は、やがて外務省推薦で文部省( 現文部科学省 )の教科書検定審議会委員となり、2000年10月には日本の教科書検定に中国寄りの歴史観を持ち込み、そのような歴史観を援用しようと様々に 「 工作 」 したことが報じられた。
 日中国交樹立後の日本外務省のなかで、比較的バランスのとれた中国課長は藤田公郎氏( 1974年就任 )、田島高志氏( 同1976年 )、谷野作太郎氏( 同1978年 )、池田維氏( 同1980年 )といった人々で、中国語を研修した狭義の戦後チャイナースクール第1号は藤田公郎氏であるが、彼はJICA( 国際協力事業団 )総裁を務めたのち、南太平洋のサモアでボランティア活動を行って話題になった。
 藤田氏のように当然、駐中国大使になるべき人物がチャイナースクールの路線から外れてゆき、北京に忠誠を尽くす人間が出世するという人事が慣例になってしまっていたのである。 香港総領事のなかでも外務省随一の中国通できわめて個性的だった岡田晃氏や、欧米的センスも身につけた須磨未千秋氏、温厚な原冨士男氏らは橋本氏らと異なるスタンスをとったがゆえに、橋本氏ら親中派からうとんじられた。 このゆがんだチャイナースクールの伝続こそ、戦後日本外交における大きな過ちだったといえよう
 橋本氏らがそこまで勢力を伸ばしたのには、その体質的な反ソ主義ゆえに、従来の親中華民国路線から親中路線に急旋回した外務省のドン・法眼晋作氏が、中ソ対立下の田中 ─ 大平時代の事務次官として君臨したことも背景にあったといえよう。
 チャイナースクールのピラミッド構造は、戦後日本外交に大きな害悪をもたらしたのみならず、政治家たちの 「日中癒着」 の構造をつくり上げた原因でもある。 彼らのバックアップによって田中、三木、大平、竹下、宮澤、橋本といった自民党政権の親中派の総理大臣の流れが綿々と引き継がれてきた。
 延べ7兆円にも及ぶ対中国ODAは結局、中国の経済発展のみならず今日に見る軍事力の増強に繋がり、また利権の温床とも見られてきたが、これらも中江要介 ─ 橋本恕 ─ 国広道彦といった親中派の駐中国大使を頂点としたチャイナースクールの力によるところが大きかったように思われる。
 さらに最近では阿南惟茂氏、宮本雄二氏という紛れもないチャイナ・スクールの大使の次に、尖閣諸島問題で地権者から上地を購入するという東京都の計画に中国側の立場から警告した丹羽宇一郎大使の存在がある。 よく知られているように、丹羽大使は日本の商社のなかでもとりわけ親中国的体質が強かった伊藤忠のトップに立っていただけに、そこに外務省チャイナースクールの伝統が加味されて、今回のような 「国籍不明」 の大使発言にいたったのだともいえよう。


日中関係にとっての尖閣

 2010年9月7日、沖縄・尖閣諸島近海で起こった 「 中国漁船 」 によるわが国の海上保安庁巡視船への衝突事件は、日中関係の本質をはからずも浮き彫りにしたばかりか、中国当局の一連の出方や、その後の中国国内での反日デモの発生によって、中国側の当面の海洋戦略とその領土観が明らかになった。
 経済発展をテコに軍事力を増強してきた中国は、抑圧を続けるチベット、ウイグルの少数民族地域と台湾に加えて、最近では南シナ海を 「 核心的利益 」 の対象とし、西太平洋からインド洋、ソマリア沖、アフリカ沿岸にまで海軍力を拡大している。 その中国が、こと自己の内海とみなす東シナ海での尖閣問題で譲歩したり、日本側に理解を示したりする気配が一切ないことも明らかになった。
 それは、中国側が海軍出身ながら異例の党中央政治局常務委員になった劉華清海軍司令の時代の1985年に近海防衛戦略を打ち立てて以来、さらに執拗にこの問題に対処してきたのに対して、日本側が実に単純に 「 日中友好 」 外交に賭けてきた結果でもあった。
 周知のように、1968年の国連アジア極東経済委員会( ECAFE )の海洋調査で尖閣諸島海域の豊富な海底資源の存在が明らかになったのだが、それ以来、中国は領有権を唱えはじめたのである。
 中国側は、日中国交樹立前年の1971年12月30日付 「 釣魚島( 尖閣列島 )に関する中国外交部声明 」 で、沖縄返還協定を激しく非難しつつ、「 釣魚島などの島嶼は昔から中国の領土である 」 「 釣魚島 …… などの島嶼は台湾付属島嶼である 」 「 中国人民は必ず台湾を解放する! 中国人は必ず釣魚島など台湾に付属する島嶼を回復する 」 と明言していた。
 このような明確かつ公式な中国側の主張にもかかわらず、当時の日本政府・外務省もマスメディアも、翌年の日中国交樹立へと大きく流れ込んでゆく雰囲気のなかで 中国側に厳重抗議することもせずに、日中国交の際の外交交渉でも尖閣問題は棚上げしたまま、ひたすら 「日中友好」 外交に賭けた のであった。
 この問題で日本国民に印象深いのは、中国が文化人革命の混乱から立ち直りつつあった1979年秋に鄧小平副首相( 当時 )が来日したとき、「 尖閣諸島の問題は次の世代、またその次の世代に持ち越して解決すればよい 」 と語ったことであった。




 さすが鄧小平氏は物分かりがいい、とわが国の政府もマスメディアも大歓迎したのだが、その鄧小平氏が華国鋒氏を失脚させ、「 改革・開放 」 のための南巡講話を行って権力を強めつつあった1992年2月に中国側は、全国人民代表大会の常務委員会( 7期24回 )という目立たない内部の会議で、「 中華人民共和国領海及び咀連( 隣接 )区法 」 ( 領海法 )を制定し、尖閣諸島( 中国名・釣魚島 )は中国の領土だと決定してしまったのである。
 同法第二条は 「中華人民共和国の領海は中華人共和国の大陸とその沿海の島嶼、台湾及びそこに含まれる釣魚島とその付属の各島、膨湖列島、東沙群島、西沙群島、中沙群島、南沙群島及びその他一切の中華人民共和国に属する島嶼を包括する」 と規定している。
 尖閣諸島を含む台湾や膨湖諸島はもとより、ヴェトナムやフィリピンなどと係争中の南シナ海の西沙、南沙両諸島まで中国の領土だという一方的できわめて覇権主義的な領土観が、中国内部では法的根拠を持ってしまったのである。
 日本政府・外務省はこの時、即座に事態の重要性に気づき、中国側に厳重に抗議すべきだった。 当時はしかし、何らの外交行動に出なかったばかりか、2ヵ月後の江沢民中国共産党総書記の訪日、その年秋の天皇・皇后両陛下のご訪中という 「 日中友好 」 外交に専心した反面、尖閣諸島という日本の国益にかかわる問題にはほとんど意を用いなかったのである。 時の政権は宮澤首相、駐中国大使は橋本恕氏であった。
 このような 「 日中友好 」 外交の結果として、最近の中国国内における尖閣諸島をめぐる若者たちのデモには、単に尖閣諸島のみならず、かつての朝貢国ちょうこうこく・琉球を回収し、沖縄を開放せよとのスローガン( 「 収回琉球、解放沖縄 」 )が掲げられていることにも、私たちは十全の注意を払わなければならなくなってきているのである。
 中国はこの秋の第18回中国共産党大会を前にして、大きな話題となった重慶市トップの薄煕来失脚問題にも見られるように、胡錦濤・温家宝ら共産主義青年団系と江沢民影響下のいわゆる太子党系との熾烈しれつな権力闘争の渦中にあるだけに、こと尖閣諸島や南シナ海をめぐる問題ではきわめて好戦的になるであろうことは間違いない。


国交樹立を急いでいたのは中国

 1972年7月の田中内閣の成立は、長く保守本道の政治を担ってきた佐藤栄作政権崩壊直後の新しい政治的機運の醸成ではあったが、それは同時に、日中国交正常化という重大な外交案件に連動したものであり、田中首相は大平外相とともに早くも同年9月に中国を訪問して、一挙に国交樹立を実現したのであった。
 当時の日本国内は、「 産経新聞 」 ( 当時はサンケイ新聞 )以外のマスコミがこぞって、ほぼ無条件で中国との国交樹立を要求しており、前年夏に起こった衝撃的な米中接近以降の国際社会の変動のなかで、「 バスに乗り遅れるな 」 とばかり、雪崩現象的に中国へ傾斜していったのである。
 東京のホテルで、当時の三木武夫氏、田中角栄氏、大平正芳氏など自民党の領袖たちが、参事官クラスにすぎない肖向前中日備忘録貿易弁事処代表とともに壇上に並んでスクラムを組んでいた姿が、いまでも目に浮かぶ。 それほどまでに、日本は中国側に一方的に傾斜してしまい、対中国外交の戦略・戦術や日中関係の長期的な展望や将来のあるべき姿についてはまったく欠如していた。
 爾来40年、尖閣諸島問題ばかりか、靖國問題、歴史認識の問題、最近の中国の軍事力増強といった一連の問題のみならず、日中双方の国民感情の問題をも冷静に見つめれば、40年前の日中国交自体が正しかったのかどうかが真剣に問われるべき であろう。
 私は当時、内閣官房長官の私的諮問機関としてできた国際関係懇談会の委員として、佐藤政権の時代から日中関係についての政策形成の一端にかかわるという巡り合わせにあった。 私たち学者を中心とする国際関係懇談会のメンバーは梅棹忠夫氏、石川忠雄氏、衛藤瀋吉氏、永井陽之助氏、神谷不二氏ら、若手では山崎正和氏、江藤淳氏、同じく高坂正尭氏、そして私で、とくに高坂氏と私か一番若いということで幹事を務めることとなった。
 その辺の経緯については、 『 佐藤榮作日記 』 ( 全6巻、朝日新聞社、1997~99 )や 『 楠田實日記 』 ( 中央公論新社、2001 )にもしばしば出ているが、私たちは中華人民共和国を正統政府として認めることにおいては意見が一致していたものの、台湾、つまり中華民国との関係は日本にとってきわめて重大なので、台湾との関係も十分に調整しながら中国との国交樹立を実現すべきだと考えていた。
 そのことは、71年1月の国会における佐藤首相の施政方針演説にもはじめて中華人民共和国という言葉を使って表現されていた。 その前後にはいわゆる保利書簡問題、すなわち自民党幹事長の保利茂氏の周恩来首相宛ての書簡を、美濃部亮吉都知事が訪中に際してたずさえていったという問題もあった。




 佐藤首相の首席秘書官の楠田實氏に依頼されて、保利書簡の原案は私か執筆したのだが、当時、周恩来総理は保利書簡を突き返したにもかかわらず、それを見ているのである。 そのなかでは、台湾問題に関する 「 日中復交三原則 」 ( ①中華人民共和国が唯一合法政府②台湾問題は中国の内政問題③日台条約は不法で破棄 )には触れていなかったために、周恩来総理としては受け取るわけにはいかなかったのだといえよう。
 しかしながら、佐藤政権の日中国交回復にかける意思は十分読み取れたはずで、そこに保利書簡の大きな意味があったといえよう。 当時の国際環境には米中接近という大きな動きがあったものの、一方では中ソが激しく対立していた。 日本との国交が必要だったのは、むしろ中国のほうだったのである。
 そのような状況を考えると、日本側はもう少し余裕を持って中国とわたりあうべきであった。 何らのシナリオも持たずに9月に訪中し、マスコミに煽られて一挙に共同声明を発表してくるという方策とは違ったシナリオが、私たちにはあったのである。
 9月に田中・大平両氏が中国を訪問して、毛沢東・周恩来と会談する。 中国側の意向も十分聞き、いったん帰国して、翌年春に国交正常化にもっていくべきだというのが、私たちのシナリオであった。 その間に台湾問題を十分に練っておき、たとえばアメリカが71年の米中接近以後、79年の国交樹立まで8年近い歳月をかけて自らのポジションを整え、国内法としての台湾関係法を制定したように、歴史的にも文化的にも台湾とのかかわりが最も深い日本としての配慮があってしかるべきであったのである。
 しかし当時は、外務省もまたマスコミも、そして佐藤政権を引き継いだ田中政権下の内閣官房も、ほとんど聞く耳を持たずに日中国交を一挙に実現する方同に流れ込んでいった。
 それ以来、中国側は日本を 「飛んで火に入る夏の虫」 のように扱う優先権を得てしまったといえよう。 その結果、ほぼ中国の意のままに操られて 「日中復交三原則」 を日中共同声明でも承認し、台湾( 中華民国 )を一方的に見捨ててしまったのである。 この拙速外交による台湾問題の大きなツケをその後、40年を経た今日まで残してしまっている。