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 中国には 「人民日報は人民を騙し、北京日報は北京市民を騙す」という諺があるが、嘘はメディアだけにかぎらない。 朱鎔基元総理ですら 「すべてが嘘。 嘘でないのはペテン師だけ」 と嘆いたほどだから、嘘はむしろ伝統文化だという方が正確だ
 なぜ中国人は平気で嘘をつけるのか、そしてなぜ日本人は何度も編されるのか。
 たとえば 中国人には品格と道徳観念がなく、嘘もつけば謝罪もしないし、想像以上に残酷で、言行も乖離して実利的 だが、 「誠」 一筋の日本人は、なかなかその 「詐」 の民族を理解できない。 ことに戦後の日本人は自虐史観で育ったため、中国に振り回され、日中間の齟齬もそこからきているのだ。 なにしろ中国は独裁皇帝と中華思想を生み続けた風土を持つから、国際ルールを守るはずもないし、そのような歴史的伝統があるかぎり、外国と対等には付き合えない。
 一方、日本の風土は天皇制と武士道を育んできた。 物産は豊かで神仏信仰が精神的な支えとなり、名誉と信用を追求する武士道の精神は、戦後もなお受け継がれている。 しかも天皇が日本人の精神的シンボルとなっているので、独裁体制でしか人民を統治できない中国と違い、政権交替は穏やかで、文化的にも寛容性を持っている。
 中国の腐敗と混乱の根源は専制独裁にあり、帝国は何度滅んでも、その風土はなお巨大な帝国を再生させざるを得ない理由がある。
 日本の弱点は政治家、官僚、学者と巨大メディアに自虐史観のマゾヒストが多いことだが、恐れるのはかの無法国家が、それを衝いてきていることだ。 それは外務官僚、ことにチャイナスクールの連中が中国の罠に陥り、利用されていることだけではない。 中国は十三億人民を統治するには世界で覇権を握るしかなく、日本を冊封化する戦略も不可欠だ。
 ではいかにして中国人に本当の日本人を理解させ、独裁のマインドコントロールから解放すればいいのか。 中国人は饒舌にして、抜群の交渉力と政治力を持つものの、政治の話になると 「沈黙は金」 だ。 そしていかに高潔な人でも友人すら平気で裏切るという、実にほめようのない民族性だが、あの厳しい風土のなかでの悲しい生存本能によるもので、同情せざるを得ない。
 結局は日本に来る留学生に日本の心を教えるとともに、中国の生存に不可欠とされている世界覇権の野望を砕くため、その核兵器を含むハイテク兵器を上回るレーザービームなどなどのハイテク技術を持たなくてはならない。 力しか信じない中国に対しては、それ以外にない。
 中国は歴史、経済だけでなく、あらゆるものにおいてどこまでが真実なのか、神さまでさえ知りようがない。 この詐の文化に対しては 「なぜだ!?」 と、歴史を追って探索し、さらに 「どこまで嘘だらけなのか!?」 を徹底的に探っていく必要がある。

 嘘を1,000回言えば真実となると信じたのは、ナチ北朝鮮韓国、そして 中国 だけです。





( 2010.04.29 )


 上海万博PRソングの盗作疑惑の一件は、盗作されたとされる岡本真夜さんが楽曲の使用を許諾したことで一段落と思われたが、渦中の中国人作曲家の所属する音楽会社が公式声明を発表し、盗作であることを強く否定した上で、疑惑を指摘してきた人々を 「下心のある人間」 だと罵倒ばとうしたのである。

 2つの楽曲が非常に類似していることは科学的方法によっても検証済みだし、上海万博事務局はPRソングの著作権にトラブルが発生していることを認めている。 同事務局が岡本さんの所属事務所に楽曲の使用許諾を申請したこと自体、問題の楽曲が盗作であることの何よりの証明 であろう。

 つまり、誰の目から見てもそれが盗作であることは明らかだし、盗作という行為は当事者にとっても恥じるべきことであろう。 にもかかわらず、当の疑惑者は露ほどの恥の意識も見せることなく、岡本さんの寛大さに感謝することもなく、むしろ 「盗人たけだけしい」 というべき態度で、 「盗作でない」 と堂々と開き直った のである。

 その並ならぬ 「神経の太さ」 は大半の日本人の度肝を抜くものであろうが、実は 今の中国では、悪事を働いた人が 「悪」 を悪とも思わず、 「恥」 を恥とも感じず、むしろ 開き直って自らを正当化するのが 「国民的流儀」 となっている。

 たとえば、今年の3月に 「夫婦交換パーティー」 を開いたことで起訴された南京市在住の大学助教授は 「おれのやったことは不倫よりも高尚な行為だ」 と自賛し、上海市内の13階マンションが倒壊した一件で被告となった責任者は 「落雷が原因かも」 と強弁した。

 汚職で捕まった政府の高官たちは 「私より多く収賄したやつはいくらでもいるのに、私だけが捕まったのはどういうことだ」 「私は20数年間苦労してやっと市長のいすを手に入れた。 多少収賄して何が悪いか」 ……。 これらの “名セリフ” は中国ネット上の語り草ともなっている。

 それは別に個人に限られたことではない。 中国の政府も同類だ。 中国海軍のヘリコプターが沖縄本島南方海域で海上自衛隊の護衛艦と2度にわたって異常接近した問題で、中国外務省は 「日本側の監視活動に対する必要な防衛措置だ」 と開き直って正当化し、中国国営の国際放送局に至っては、中国海軍による接近行為を 「紳士的風格を示した」 とまで褒めたたえた。 そういえば、「毒ギョーザ事件」 では、一時 「問題は日本側にあるのではないか」 と開き直った のも当の中国政府である。

 とにかく、民間人から政府まで、今の中国では、 「自分たちはちっとも悪くない。 すべては相手が悪いのだ」 といった 「開き直りの精神」 がいたるところで貫徹されている様子である。

 考えてみれば、昔の中国人はそれほど恥知らずの人間たちでもなかった。 友人や親族を密告することや教師を殴り殺すことが 「革命的英雄行為」 だと褒めたたえられた毛沢東の時代から、中国人は徐々に善悪の分別を失っていった。

 さらに、鄧小平の時代、政府が天安門で行った自らの虐殺行為を 「正しい措置」 だと正当化して開き直って以来、自分の過ちを絶対認めない ことが、この国と国民のスタイルとして定着してきた。

 このような国民と政府に対して、日本人はよほど慎重に対処していくべきだし、あまり深く付き合わない方がよいのではないかと思う。 ましてや、





( 2013.04.20 )


 古来、日本には 「清き明き心」 を何よりも大切にする伝統がある。 日本人のDNAにしっかりと息づいた美徳と言ってよいものだ。

 地方へ行くと、道ばたに野菜などの無人販売所が無防備に置かれているのをよく見かけるが、お金を払わずに品物だけを盗んでいく人がいるという話はあまり聞いたことがない。 この無人販売所の存在は、正直を尊ぶ日本人の 「清き明き心」 を象徴するものの一つだ。 評論家の黄文雄氏( 台湾出身 )は、日本人の心性を 「誠・施・和・公・浄」 の5文字で表し、 「誠実で、人に施し、平和を好み、公共心に富み、汚いことを嫌う」 と称揚している。

 国内では当たり前のこの価値観も、残念ながら国外では全く通用しない現実がある。 世界には平気でウソをつく国や、他国の物を自国の物だと言って恥じない国があるのだ。

 例えば韓国がそうだ。 竹島問題は、戦後、韓国が敗戦国日本の弱い立場につけこんで島を不法に奪い、実効支配を始めたことから生じたものだ。 「従軍慰安婦」 問題も、日本をおとしめるために作られた真っ赤なウソ話が元になっている。 拓殖大学教授の呉善花氏( 韓国出身 )は、韓国を 「虚言と虚飾の国」 と形容し、 「ウソつき大国」 だと断罪している。 「どうしてこの民族はこんなに自己中心的なのだろうか」 と嘆いてもいる。

 中国はさらにひどい。 自ら日本領と認めていた尖閣諸島を、70年代に入って突然、自国領だと主張し始めた。 まさに尖閣問題は、中国の利己的な欲望と帝国主義的領土拡張志向の産物なのだ。 日本の領海に入り込み、島に上陸し、日本の巡視船に船を体当たりさせ、飛行機で領空を侵犯する等の無法行為を重ねている。

 「中国の島を日本が盗んだ」 と口汚くののしり、戦後の国際秩序を日本が破壊しているとまで非難する。 反日デモという名の暴動を繰り返し、放火、略奪、暴行、破壊など無法の限りを尽くしたのも記憶に新しい。 公海上の海上自衛隊護衛艦などに射撃管制用レーダーを照射したにもかかわらず、抗議を受けると日本のでっち上げだとうそぶく。 黄文雄氏は、中国の国民性を 「詐・盗・争・私・汚」 の5文字で表し、 「ウソをつき、盗み、人と争い、個人の利益を追い求め、そのためには汚いことも辞さない」 と解説している。

 韓国人や中国人が平然とウソをつくのはなぜか。 工学博士の林思雲氏( 中国出身 )などによれば、韓国や中国では、国家や家族にとって都合の悪いことや不名誉なことは隠すのが正義であり、そのためにウソをつくのは倫理的に正しい行為なのだという。 韓国人や中国人のこの一般的な心性は、日本では全くなじみのない 「避諱ひき」 という儒教上の概念でくくられるのだそうだ。 いやはや、日本人とは真逆の国民性ではないか。

 日本には 「清き明き心」 に通底する謙虚・謙譲・謙遜といった価値観もあり、それが自虐教育の背景の一つにもなっていると思われるが、この心情も 「避諱」 の国には全く通じない。 他人を悪く言うことを慎む日本では、他国の性悪な面を学校で子供たちに教えることを避ける傾向があるが、日本人の美徳は大切にしながらも、世界には日本の価値観が通じない現実があることを正しく教えていく必要がある。

 ウソにまみれた国を相手にするには、それなりのしたたかさと覚悟が不可欠なのだ。





( 2015.02.26 )

 河野洋平よ「右翼政治」発言がどれだけ利用されやすいか分からないか!


 これほどあからさまな歴史修正主義国はあるまい。 中国の王毅外相が23日、国連創設70年を記念する安全保障理事会の討論会で行った演説をみて、その余りに堂々とした事実の歪曲わいきょくぶりにかえって感心した。

 王氏は名指しこそしないものの 「過去の侵略の犯罪を糊塗ことしようとしている国がある」 と日本を批判し、中国の歴史について次のように語ったのである。
「戦後70年間、国連の創設メンバーで、安保理の常任理事国の中国は、常に国連憲章の精神に従い、国連の役割を支え、平和と安定を守ることに尽くしてきた。 今日の開かれた討論会が、反ファシスト戦争勝利と国連創設70年の記念の序幕になることを望む」 ( 25日付読売新聞朝刊 )
 中国の言う反ファシスト戦争とは抗日戦争のことを指すが、これには台湾が異議申し立てをしている。
「抗日戦争の主役は国民党が主導した 『中華民国』 の国軍だったという歴史に向き合うべきだ」
 台湾の国防部報道官はこうクギを刺している。 また、立法院( 国会 )外交・国防委員会の有力者、林郁方氏は今月16日、産経新聞の取材に 「共産党軍が戦ったのは後方と辺境のゲリラ戦だけだ」 と指摘した。

 そもそも、中国は王氏が主張するような国連の創設メンバーではない。 国連が発足したのは1945年10月であり、中華人民共和国の建国はその4年後の49年10月だ。 中国が台湾に代わって国連に加盟するのはさらに20年以上あとの71年10月なのだから、もはや何をか言わんやである。

 ちなみに、国連憲章23条に安保理常任理事国として記されているのはいまだに 中華民国。 中国は手続き上、その権利を継承したとはいえ、何でも自分の手柄にするのは無理がある。

 「人種、性、言語または宗教による差別なくすべての者のために人権および基本的自由を尊重するように助長奨励する」

 国連憲章1条にはこう明記されているが、中国が常にこうした精神に従ってきたと誰が言えるだろうか。 チベット、ウイグル、内モンゴル …… 反証を挙げれば枚挙にいとまがない。 東シナ海や南シナ海で、 「法の支配」 の実現ではなく 「力による現状変更」 を目指しているのはどの国か。

 そんな国が戦後70年の今年、臆面なく正義の味方づらし、国際社会で日本悪玉論を流布する宣伝戦を仕掛けてきているのである。

 「戦後70年間、日本は平和で自由で民主的な国を構築し、近隣諸国、アジア諸国の発展のため支援し、貢献してきた。 こうした日本の歩み、正しい日本の姿を発信していきたい。 オールジャパン態勢で行っていくことが大事だ」

 菅義偉すが・よしひで官房長官は24日の記者会見でこう述べた。 まさにその通りだと納得していたところ、同日に親中派で知られる河野洋平元官房長官が講演で次のようなことを語っていたと知り、頭を抱えた。
「今は保守政治というより、右翼政治のような気がする」
 安倍晋三首相や日本政府に歴史修正主義者というレッテルを貼りたい中国や、欧米の偏向メディアが 「元政府高官で元自民党総裁の河野氏ですらこう言っている」 とお墨付きにして利用しそうなセリフである。

 何を口にしようと言論の自由だが、ホンの少しでも国民の迷惑も考えてもらいたい。




( 2015.04.27 )

 

 「歴史を直視しろ」。 中国の習近平政権は戦後70年を意識し、しきりに日本を牽制けんせいする発言を繰り返している。 それならば、中国の歴史も直視しよう。 1970年代、数百万人ものカンボジア国民を虐殺したポル・ポト政権を “熱烈” 支援していたのはどこだったのか。 「一度も謝罪しない」 で開き直る中国の態度に憤るカンボジアの人々の声を米紙が伝えている。

 中国なくして殺戮なし

 「中国こそ自らの歴史への直視を迫られている」

 米紙ニューヨーク・タイムズが掲げた見出しの記事は、首都プノンペンにある悪名高き 「ツールスレン・ジェノサイド( 虐殺 )博物館」 の場面から始まる。

 同博物館はかつて高校だったが、ポル・ポトが実権を握ったクメール・ルージュ( カンボジア共産党 )支配の 「民主カンプチア」 時代、 「S21政治犯収容所」 となり、約2万人が収容されたとされる。 生き残ったのはたったの8人。 反対する者、疑わしき者は粛清、抹殺する共産主義の恐怖政治を象徴する場所だ。

 そこで案内役を務める男性が必ず見学者に聞く質問がある。 「この中に中国人はいませんか」 と。 その理由を聞いた同紙の記者に男性はこう答えている。
「ポル・ポトの大量殺戮さつりくを可能にしたのは、中国のせいだと説明すると彼らはすぐに怒り出すんだ。 真実ではない。 今は友好国だ。 過去は水に流そう、なんて言い出す」
 カンボジア国民にとっては到底、水に流せる問題ではないだろう。 同国の悪夢ともいわれるクメール・ルージュが中国のサポートなしでは成り立たなかったことは史実として認識されている。 米コーネル大学で中国とアジア太平洋地域の研究を担うアンドリュー・メーサ氏は 「中国の支援がなければ、クメール・ルージュは1週間と持たなかっただろう」 と断じている。


 カンボジアとは “蜜月”

 クメール・ルージュがカンボジアを支配したのは1975年4月~79年12月。 指導者のポル・ポトは 「階級のない完全な共産主義社会」 を目指し、一切の国民の財産を没収。 「反乱の恐れがある」 として特に知識層を敵視し、殺戮の限りを尽くしたホロコーストの時代だ。 犠牲者の正確な数字はいまだ不明だが、同紙は約170万人と伝えるなど、200万人前後が虐殺されたという。 英映画 「キリング・フィールド」 を思い出す人もいるだろう。

 その “狂産” カンボジアに肩入れしていたのが、毛沢東( 76年死亡 )であり、鄧小平の中国だった。

 両国の関係を著書 「戦友」 Brother in Armsに集大成したメーサ氏は 「当時、カンボジアへの外国援助の90%は中国が担っていた」 と語る。 食料や建設資材から戦車、航空機、火器まで送り込み、殺戮の最中でも、中国人エンジニアや軍事顧問はクメール・ルージュの共産党員を訓練していたという。 同国中部には “蜜月” ぶりを象徴する軍用滑走路が残っている。

 大量殺戮への中国の関与を認めるべきだという批判に対し、2010年、当時の駐カンボジア中国大使が 「われわれは食料と農具を送っただけだ」 と突っぱねるなど、責任逃れの抗弁を繰り返している。

 しかし、ベトナムがクメール・ルージュを追討した直後の1979年2月、鄧小平は “懲罰” だとして中越戦争を仕掛けた。 また、山間部に逃亡したクメール・ルージュ残党を中国は支援し続け、ポル・ポトが中国を訪れたり、幹部に中国籍のパスポートを発給していたりしていたのも忘れたのだろうか。


 歴史教科書では無視

 中国政府の歴史健忘症は実際、驚くほど進行しているという。

 同紙によると、中国の高校生向け主要歴史教科書には、クメール・ルージュや中越戦争に関する記述は全くといっていいほどない。 ベトナムとの間で戦争があったことすら知らない若者も少なくなく、共産党の歴史操作は成功していると指摘する。

 「中国政府は非難されそうなことは無視し、都合の良い歴史をプロパガンダにして強調している」 と語り、共産党の恣意しい的な歴史認識をあぶり出そうとしている中国人歴史家もいる。

 記事では、中越戦争に参加した多くの元兵士が現在、恩給も十分に与えられずに困窮状態になるなど、中国政府から無視されている実態にも言及している。

 その一方で、朝鮮戦争については、北朝鮮が仕掛けたという国際社会で共通認識になっている事実を教科書では全く記述せず、 「自国の安全と朝鮮救済のためやむなく参戦し、国際的地位を高めた」 と自画自賛しているというから、厚顔無恥も極まれりだ。

 共産中国建国直後の大躍進政策、文化大革命で、一体どれだけの血が流れたのだろう。 そして天安門事件や今も続くチベット人、ウイグル人への弾圧 ……。

 李克強首相は3月、 「一国の指導者は先人の業績を継承するだけではなく、その罪による責任も負わなければならない」 と述べた。 安倍晋三首相が今年夏に出す戦後70年談話を意識した発言だが、そっくりそのまま返したい。

 「中国は史実を認めないし、謝罪もしない」カンボジア国民の声を聴けば、いびつな中国共産党の歴史認識にまともにつきあう必要はないことがわかる





( 2015.07.17 )


 ここ数年の中国の言動を見ただけでも、中国が 「嘘つき大国」 であるということを日本人は身に染みて感じてきた。 それにもかかわらず、ことを荒げないように日本は努めてきたのではないだろうか。

 中国は5千年の歴史を通じ、嘘で人民を統治してきた国家である。 現王朝を正当化するために、前王朝の歴史は現王朝が( 歪めて )書き正史としてきた。 従って、中国の本当の歴史は正史にはなく、稗史と呼ばれる方にあると言われる

 古来、中国の言動は嘘塗れであり、日本の善意などが通ずるはずもなかった。 端的な一例は、3.3兆円にのぼる日本のODA( 政府開発援助 )が中国の近代化を促進したが、中国からは日本糾弾しか聞こえてこない。




 我々の身近に起きた事象を見ても、中国の主張が矛盾に満ちたものであることが分かる。 しかし、一向に謝罪などしないし、逆に報復などの行為で圧力さえかけてくるのが中国流である。

 最大の関心事である尖閣諸島の領有問題については、くどくどと述べる必要はない。 1910年頃の写真では尖閣諸島の住民が日章旗を高々と掲揚している。

 もっと明白な事実は、福建省の漁民31人が強風で遭難し尖閣諸島の和洋島に漂着したおり、石垣村の人たちが熱心な救助活動で彼らを祖国へ生還させたことに対して、 「駐長崎領事馮冕フウ・ベン」 が 「中華民國九年五月二十日」 の日付で、 「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」 と明記した感謝状を出している。 1920年のことである。

 その後、日本人が引き上げ、敗戦で米軍に占領されるが、登記簿上は日本人の所有になっている。 こうした現実を力で押し切ろうとしてきたのが中国である。

 鄧小平の改革開放で経済が発展し、石油資源が必要になってくると見るや、海洋法を定めて勝手に自国領に編入する。 2010年9月には尖閣諸島沖で違法操業していた中国漁船が、取り締まりを実施した海上保安庁の巡視船に体当たりする追突事案が発生した。

 中国では自国の海域内で中国漁船が操業していたところ、進路に日本の巡視船が突然現れ接触した。 漁船は魚釣島海域を離れたが、巡視船が追いかけてきて逮捕したというような報道ぶりであったという。 その後は、報復とも思われる民間社員の捕縛などで圧力をかけてきた。

 同時に、領海侵犯を頻繁にするようになり、横暴にたまりかねた石原慎太郎・元都知事が都で購入する動きを示すと、ことを穏便に解決したいとする民主党政権が国有化を決定した。

 こうした日本の動きに対し、中国は漁民などが行き来したことなどを理由に 「古来、中国の領土であった」 と、平然と主張する状況である。

 このほかにも、関心を呼んだ毒餃子問題や危機一髪のレーダー照射問題などがあった。

 2007年12月から2008年1月の間に、中国・天洋食品の冷凍餃子を食べた千葉、兵庫両県の計10人が下痢などの中毒症状を訴えた。 中国での生産過程で毒が混入された疑いがあるという日本の主張に対し、中国は言いがかりと逆に日本を責め立てた( 2年後に同会社の元臨時工員を逮捕し、6年後の2014年に無期懲役の判決を出す )。

 2013年1月には東シナ海で、中国人民解放軍の海軍艦艇が海上自衛艦の護衛艦に射撃管制用レーダーを照射した。 一歩間違えば、交戦に発展しかねない危険極まりない行為である。

 日本側は中国の否定を予測して、公表に当っては詳細なデーターを分析・検証し、事実関係を十分に固めたうえで6日後に公表した。

 中国側はレーダー使用を認めたが、射撃管制用ではなく監視用レーダーであったと主張した。 その後、中国軍の複数の幹部は射撃用レーダーであったことを認めているが、中国国防部( 国防省 )は依然として否定しているといわれる。




 主人が出かけた後、忘れ物を思い出して帰ると、中国人手伝いが貯蔵庫から盗みをやっている現場を見つける。 手伝いは咄嗟に貯蔵庫が空に近いので補給しているところでしたと言う。

 白々しいウソであるが中国人の常套手段で、恥じ入るとか反道徳的などの意識は全くない。 こうした話は聞き飽きるほどある。

 今でも中国指導部や政府が堂々と、国家を挙げてやっていることである。 当初に挙げた尖閣諸島問題をはじめ、例示に暇がない。 こうした逆転の発想というか、相手に罪をなすりつけてなんとも思わないやり方に、日本は致されるだけ致されてきた。

 清朝末期の混沌としていた支那が秩序を取り戻すべく、日本人は惜しげもなく支援した。 多くの留学生や亡命者も受け入れた。 なかでも孫文や蒋介石に日本人は期待した。 あまりの入れ込みで身上をつぶした人もいる。 しかし、2人とも日本を裏切る。

 なかでも、今なお歴史問題として騒がれる南京大虐殺は、蒋介石に端を発している。

 日本人の戦争と異なり、中国式戦争では住民を楯にし、中国兵が戦場の住民を虐殺し、また糧食を挑発して餓死させることがしばしば起きている。 南京戦でも、中国はあえて住民地区を楯として選んだりした。

 新聞記者や大学教師を経て30歳で米国務省に入ったラルフ・タウンゼントは、1931年に上海副領事として中国に赴任する。 翌32年、上海事変( 第1次 )に遭遇、その後福建省副領事となる。

 タウンゼントは 「兵隊の死者はごく少ない。 ほとんどは戦場となった地域の住民である。 しかもほとんどが餓死である。 米粒一つ残らず 『友軍』 に奪われるからである」 ( 『暗黒大陸 中国の真実』 )と述べる。

 ちなみに、タウンゼントが挙げている例を見ると、1931年5月の江西省と湖南省における( 国民党 )対共産党戦に関する楊将軍の報告では、江西省の戦死は18万60000人であるが、難民の死者210万人、焼失家屋10万棟であり、湖南省では戦死者7万2000人に対し、焼失家屋12万棟となっている。

 また、湖北省知事が行った1932年11月の湖北省における共産党の掠奪報告では、死者35万人、家を失った難民350万人、焼失家屋9万8000棟となっている。

 近代国家の戦争では、戦場での将兵の戦いで勝敗が決まり、死傷者はほとんどが軍人である。 しかし、中国での戦いはおよそ近代戦とは言い難く、兵士が住民を直接間接に巻き込み殺戮することなど、何とも思っていなかった。

 江沢民以下の歴代主席が言挙げする30万人の大虐殺や3000万人の犠牲者というのは、日本軍の手によるというよりも中国兵士が自国民を犠牲にする国民性を離れて考えられないことを示唆している。




 タウンゼントが勤務地で悩まされた一例を見よう。 福清( 福建省福州 )で米国のミッションスクールが持っていた空地を中国人学校に乗っ取られた話である。

 中国人学校の偉い人たちが、 「お宅は空地をお使いなられていないご様子ですので、当方に貸してもらえないでしょうか。 必要となったら無条件で何時でもお返しします」 と頼んできた。 ミッションスクールの校長は同意したが、これが災難の始まりとなる。

 中国側は空地を校庭として使うため、周りに塀を建て始めた。 これは中国では 「所有権を主張する」 ことにつながるので、校長は心配して直ちに抗議する。 しかし、何の効果もなく塀は一日一日高くなっていく。

 地元の警察に頼んでも何もしてくれない。 米国の慈善団体から大きな利益を得ている地域の住民も排外的である。 抗議をよそに塀は完成して堂々と所有権を主張する。 現地解決は不可能となり、福州の米国領事館に持ち込まれる。

 領事館からは 「規定に従って、公明正大な調査を望む」 旨の要望書が何度も提出されるが、塀は手つかずである。 ついに米国政府に連絡して、福建政府へ強硬な要望書が提出される。

 同時期は中米の抗日戦への協力とも重なって話は友好裏に進み、責任者から 「塀は直ちに撤去する」 旨の通達が来る。 しかし、塀は一向に撤去されない。 「いつ撤去するのか」 問い合わせると、 「即刻」 との返事であるが、事態の進展はない。

 こうして領事館は福建政府に、より強硬な要望書を何度も出す。 すると、今度は 「塀はすでに撤去され、完全復元済み」 の書簡が来る。 そこで、現場に出向いてみると、 「全くの手つかず」。 その旨連絡すると、また同じく 「撤去済み。 現場でご確認願いたし」 と手紙が来る。 「それなら」 と出かけるが何の変化もない。

 業を煮やして福建政府に強硬に詰め寄る。 そこでようやく責任者は誤りを認め、空地の写真を添えて 「復元完了」 を通知してきた。 この間に不動産譲渡証明書を何枚も添付した文書を何十枚も提出させられたという。

 写真には 「確かに」 空地が写っていた。 急ぎ駆けつけた校長は、ここで腰を抜かすほど驚く。 その写真は塀に穴を開け、そこから中を撮ったもので、塀は厳然として存在していたからである。

 




 タウンゼントは、米国で見る中国関連本が 「感傷的でお涙頂戴式の本があふれている」 と見ていたので、本当の中国と中国人に関心を持って赴任する。 そして感得したのが、中国人は少しも国際法を尊重しないし、トラブルメーカーということであった。

 彼が勤務した当時の領事は疲労困憊し、病気を理由に福州を去る。 前任者も数年の激務に疲れ、政府の対中政策に無力感を感じ辞職していた。 タウンゼントは 「優秀でありながら、中国人に振り回され、半狂乱になった人の例は枚挙に暇がない」 と書く。 本人も福州から帰米して3年そこそこで外交官を辞職する。

 「世界の人口の5分の1を占める中国人の頑固さを和らげようとした人は多い。 ( 中略 )しかし、中国人の誰もが舶来の高級服を着て高級外車に乗れる時代になったとしても、ずる賢く言い逃れをし、頑固で嘘をつく性格が変わるとは思えない」 と述べる。

 観察眼の素晴らしさは、人民服から背広に着替えた今日を見通していたかのようである。

 布教活動している米国人が襲われ、中国人を無償で教育しているミッションスクールが、そのミッションスクールで教わっている生徒の火付けや手引きによって焼失した例などを示しながら、 「中国人は次から次へと試練を与えてくれるものだ。 焼き討ちぐらいで済むならまだよい。 何百人も殺されている」 とも書く。 そうした状況は、今日に至っても続いている。

 1927年から28年に、国民党は反クリスチャンの行動指示を出している。 これにより中国領土にいた8000人にのぼる宣教師のうち、5000人が日本へ退去する。

 ところが、支援が打ち切られるのを恐れる宣教師はこうした実態を報告していない。 それどころか、 「下賜休暇中の宣教師がスライドを上映しながら 『大躍進する布教活動』 という嘘をばら撒いている。 大方( の米国人 )は演技とも知らずコロッと騙されているのである」 と書いている。

 中国人は 「表では 『正義、公平、協力』 を叫び、裏では実に見事に共謀、妨害、暗殺、掠奪を働いている」 し、 「無知な大衆の指導のために戦う指導者がいない。 実情は全く逆で、戦っているのは無知な大衆の方である。 ( だから )今の政権が消えた方が幸せになれる」 とも結論づけている。

 近年の中国からは 「正義、公平、協力」 は聞こえてこないが、鄧小平は 「養光韜晦」 ( 能ある鷹は爪を隠す、実力が付くまで隠忍自重する )を語り、大国への準備に専念した。 最近の指導者はことあるごとに 「平和的台頭」 と 「大国」 を唱え続けている。

 その裏で、南シナ海や東シナ海の掠奪を意図していたことが、今や明々白々になってきた。 他方で、中国国内では思想統制が強まり、国家主席の暗殺も何回となく発覚したと伝えられている。 「今の政権が消えた方が幸せになれる」 と、現代中国の人民も思っているのかもしれない。


おわりに

 タウンゼントの中国における経験談を題材に、現在にタイム・スリップさせながら検討してきた。

 帰米後のタウンゼントは、大学講師の傍ら、著述と講演活動に専念する。 その活動を通して中国の本当の姿を米国人に知らせ、満州事変後、米国の対日世論が悪化する中で、本当の米国の極東政策はいかにあるべきかを説く。

 結果的には中国に味方するルーズベルト政権を批判することになり、日本の真珠湾攻撃後、治安妨害容疑や反米活動などの理由で1年間牢獄につながれることになる。

 ポルトガルはマカオを香港より20年も早く返還しようとした。 そうされては立場がなくなる英国が香港返還の時期まで伸ばすようにクレームをつけたが、中国は何一つ抵抗しなかった。

 ところが、香港返還が実現した以降の中国のやり方は、どうであろうか。

 調

 姿 「力」

 日本は独自に力をつけながら、同盟の深化で抑止力を増大し、国際社会と世界の有力なメディアを味方に付ける努力が不可欠である。





( 2015.08.19 )

   



 今年の9月3日、中国共産党は北京で 「戦争勝利70周年記念」 の式典と軍事パレードを行う。 しかし、そもそも中国共産党が日本に勝利したという話自体が嘘なのだ。 1937年7月の盧溝橋事件を発端に始まった日中戦争は、中国国内の内戦に日本が干渉する形で始まった。

 当時、中国では、日本が支援していた汪兆銘の南京国民政府と、蒋介石の国民党、毛沢東の共産党が三つ巴の内戦を繰り広げたが、すでに共産党軍は内戦で疲弊し弱体化していた。

 同年9月の国共合作で国民党と共産党は手を結んだが、毛沢東の戦略は 「夷をもって夷を制す」。 すなわち、敵同士につぶし合いをさせることだった。

 日本軍と国民党軍が戦闘になるよう工作し、共産党は非戦闘地帯で勢力を拡大させた。 ゆえに、日本軍と共産党軍が正面きって戦火を交えた記録は残っていない。

 1945年8月に日本が降伏し、蒋介石の中華民国は戦勝国となった。 だが、戦争で戦力を消耗した国民党と、勢力を復活させた共産党との間で内戦となり、蒋介石は台湾へ逃げ、共産党は中華人民共和国を樹立した。

 つまり、抗日戦争を戦ったのは国民党軍であり、中国共産党は国民党の “成果” を横取りしたに過ぎない










 中国の 「2035プラン」 の話をします。 これは先日、習近平国家主席が北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長に対しても発言した、とされて話題になっていますね。

 要するに、 「中国は2035年にはGDPから何から何までアメリカを抜くという目標を立てた」、と習近平が宣言したわけですね。 まあ、権力体制が固まったので、次の目標はアメリカを追い抜くということのようです。

 私は中国から自分のビジネスを撤退させて10年たちますが、法律から何から何まで中国共産党の独断で、やりたい放題に変えられるのに嫌気がさして逃げてきた、というのが正解です。

 そのうち東京のマンションを中国の領土と言い出しかねない、と書いたところ、 「領土の意味すらわかっていない」、 「法律を知らない」、などというコメントまでいただきました。 申し訳ありませんが、中国人相手に 「国際法」などと言っている時点で、世間知らずの大間違いであり、まして、ビジネスの世界では全く通用しません。 中国国内では裁判にすらなりません。 泣き寝入りしか方法がないので、大手企業でも例えばある大手建設会社などは1990年台から中国には一切かかわらない、という方針を決めています。

 さて 「果たして中国は2035年に…」 ということになるわけですが、もうこれはコメントするのもばかばかしいわけでありまして、なぜなら中国の経済統計は共産党の目標に合わせるようにいわばねつ造されているわけでありまして、ソビエト連邦崩壊後、実際のGDPは公表の半分もなかった、ことを知っているエコノミストからすれば、こんなばかばかしい数値目標をいちいち本気で取り上げる気にもならんわけでありますな。

 これに関しては、今は首相である李克強首相が2007年に 「語った」 話が伝えられています。 この年、記念すべき第1回ダボス会議が大連で行われ、遼寧省の共産党委員会書記を務めていた( つまりホストだった )李克強氏はアメリカの経済界代表とのディナーに臨んでいました。

 アメリカ側が 「中国はこんな高い経済成長目標を達成できるのか」、と尋ねたところ、 「あんたたち、中国の経済統計を本当に信じてるのか?」 と発言したというのです。 もちろんオフレコだったわけですが、不幸にも例の 「ウィキリークス」 で暴露された文書の中に、これが入っていてバレた、というオマケ付きの話なのであります。

 中国の経済データがいかに信用できないか、という点については、高橋洋一先生がすでに詳細に書いておられますが、まあ、そういうことです。 ですから 「達成するか否か」、ではなく、習近平がそう言ったら、事実はどうあれ、そうなる、ということですな( 笑 )。 実際、事実の部分だけで物を言わせてもらうなら、これはあり得ません。 いくら約14億人の人口がいてもGDPでアメリカを抜くのは不可能です。

 中国は人口こそ多いですが、生産年齢人口( 中国では15~59歳 )はすでに減少に転じており、急な坂を転がり落ちるようにさらに減少していきます。 人口統計は誤魔化しの効きにくい統計の一つで、これだけはいくら共産党に都合が悪くてもどうしようもないので、これはもう事実として存在しているわけです。

 中国経済の成長率は今より上がることはあり得ないのです。 一方のアメリカは実は若年労働人口がちょうど大底を打ち、これから2050年に向かってひたすら増えていく、という先進国としては考えられない人口状況にあります。 つまり、アメリカは黙っていても経済成長する訳ですが、中国はその逆。

 これを見ただけでも 「2035プラン」 は達成不可能だというしかないのですが、まあ、数字だけは達成したことにするでしょう、ということで、真面目にコメントするのもばかばかしい …… という、 「いつもの話」 に至るわけでありますな。





( 2018.04.25 )

 




20日、緊急記者会見に臨んだ中国の通信機器大手、中興通訊(ZTE)の殷一民会長
 「米国による制裁は、わが社の全従業員、関連業者、消費者、株主の利益に大きな被害をもたらしている。 断固として受け入れられない」

 20日夕、中国の通信機器大手、中興通訊( ZTE )の殷一民会長は、広東省深圳市の本社で開いた緊急記者会見でこのように語った。 その上で 「貿易を政治問題にすることには反対だ」 と語気を強め、同社が制裁を受けた背景には、米中の政治対立があるとの見方を示した。

 米商務省は16日、ZTEが虚偽報告を繰り返したことを理由に、米国企業と同社の取引を今後7年間禁止する決定を下した。 半導体など主要部品の調達を米企業に依存している同社は、この決定で大きな打撃を受けた。 「携帯電話などの生産にもっとも重要な部品であるチップの在庫がなくなれば、生産停止に追い込まれ、数カ月後に経営破綻する可能性もある」 と指摘する中国の経済評論家もいる。

 1985年に創業したZTEは中国を代表する企業の一つとして知られる。従業員は9万人以上。 2017年の売上高は約1088億元( 約1兆8500億円 )だった。

 米当局は2016年、 同社が米の経済制裁対象になっているイランに通信機器を違法に輸出していることをつかみ、 司法当局に提訴。同社は当初否定したが、 その後、 不正を認め、 米政府に8億9200万ドルの罰金を支払った。 和解した際、 関わった同社の社員数十人を解雇・減俸処分とすることで米国側と合意した。 しかし、 その後の米当局の調査で、 ZTEが一部の対象社員に対しボーナスを全額支給するなど処分しなかったことが判明、 今回の制裁につながった。 米のロス商務長官は16日、 ZTEの虚偽報告を非難する声明を発表した。

 米国政府の今回の制裁はZTEの不正行為に対する処罰であり米中の政治対立とも貿易摩擦とも基本的に関係がない 今後7年間、米企業が同社に対し部品を売ることができなくなったため、トランプ政権が期待する対中貿易赤字の減少にむしろ逆効果である。 にもかかわらず、中国の政府も官製メディアも 「米国による中国企業排斥の動きだ」 として対米批判を強めた。 中国商務省は 「中国企業の正当な権利を守るため必要な措置を講じる」 と反発し、対抗措置も示唆した。 インターネットには、今回の米国による制裁を中興事件と呼び、米国製品の不買運動を呼びかける書き込みが多く寄せられた。

 北京在住の改革派知識人は「今回の事件から中国の国有企業の3つの本質が露見した」と解説する。

 まずは技術力のなさである。 チップなどの重要部品は外国からの輸入に依存しており、ストップすればたちまち身動きがとれなくなる。 高度成長を続けてきた中国経済の実力が実にもろいことが改めて浮き彫りになった。

 次に、約束をすぐに破る信用のなさだ。 今回は、米国に対しイランに製品を輸出しないことを約束しながら、中国国内の別会社をダミーに使って取引を続ける悪質さが目立った。

 そして、過ちを犯しても、謝罪することができず、すぐに責任を転嫁しようとする体質だ。

 同社の殷会長は冒頭の会見で、米国を批判した後、 「われわれの製品には13億人の支持がある。 絶対にくじけない。 中興の旗はこれからも永遠にはためく」 と国民に対し同社製品への支持を訴えた。 ( 外信部次長 )


 部品が無くて製品が作れなきゃぁ~、13億の支持があろうが売ることは出来ない …
 つまり 「食っていけない」 という単純な事が理解出来ないようだ ……





( 2018.09.21 )
貿


 「1974年通商法301条に基づく、技術移転、知的財産、技術革新に関する中国の行動、政策、慣習に関する調査報告」 と長いタイトルが付いた報告書は215ページもある分厚いものだ。 USTRは1年前の2017年8月18日に調査に着手し、18年3月に公表した。 米企業や政府関係者、大学やシンクタンクの研究者らからヒアリングした結果である。

 報告書は、中国政府や中国共産党が中国に進出した米国企業が保有する技術や知的財産を中国に移転するために、さまざまな圧力と脅迫を駆使してきた実態を明らかにしている。

 圧力と脅迫の中には、不透明で裁量的な政府の取り扱いや出資制限、調達制限、明文化されていない暗黙の規則、中央政府や地方政府の指示、命令はもちろん、サイバー攻撃による不法な知的財産の窃盗も含まれる。

 米国は政府間協議で中国に是正を求めた。 すると、中国はその都度、是正を約束した。 その数は2010年以来、16年までに延べ10回を数える。 16年の米中首脳会談では、習近平国家主席自身が当時のオバマ大統領に 「中国でビジネスをするのに知的財産や技術移転を求めない」 と明言した。 だが、中国の行動は変わらなかった。

 トランプ政権はそんな中国の態度に業を煮やして、今回の制裁に踏み切ったのだ。

 興味深いのは、中国に進出した米企業関係者らの証言だ。 彼らは 「10年以上も」 ( 報告書 )中国でのビジネスと引き換えに技術移転を求められ、拒否できなかった。 なぜか。 断れば、中国に報復され、中国でのビジネス機会を失う羽目になるからだ。

 たとえば、ある関係者はUSTRのヒアリングに対して 「米企業はこの問題について脅迫され、黙っているしかなかった。 とりわけ、中国にいる限りはそうだ。 彼らは中国の強力かつ不透明な規制制度によって、罰を受けることを覚悟せざるを得なかったからだ」 と証言した。

 別のソーラー企業関係者は 「自分たちが直面したのと同じように、多くの会社がサイバー・ハッキングと技術の盗難に直面している。 だが、販売の落ち込みと中国による報復を恐れて公にする訳にはいかなかった」 と語っている。

 報告書は 「米中ビジネス協議会( U.S. China Business Council )によれば、会員企業は報復の心配なしに( 中国の )権利侵害や決定変更を訴える信頼できるチャネルがなかった」 とも記している。

 では、なぜ今回、中国の行為を公にできたのか。 それは、トランプ政権下でUSTR自身が独自に始めた調査だったからだ。 企業側は中国の報復を心配することなく、事業遂行に関わるセンシティブな内部情報をUSTRに提供することができた。 その点も報告書が冒頭で明らかにしている。




 以上の経過は、マスコミのもう1つの問題点を示している。 中国から強制的な技術移転や窃盗の被害を被ってきたのは、米企業だけでなく日本企業も同じはずだ。 日本のマスコミはそうした実態をあまり報じていない。 時折、週刊誌が名前を伏せて報じるくらいだ。

 マスコミが報じない1つの理由は、当の日本企業が報復を恐れて外部に口をつぐんできたからだろう。 米企業と同じように 「中国政府にひどい目に遭わされる」 と分かっているから、マスコミの取材には堂々と応じられなかったのである。

 もっと大きな理由は、日本企業に対する圧力や脅迫を報道すると、当のマスコミ自身が中国に報復されるのを恐れたからではないか。 取材拒否や最悪の場合、支局閉鎖に発展しかねない事態を心配したのだ。

 最近でも、産経新聞が日中高官会談の取材を中国当局に拒否された例がある( https://www.sankei.com/world/news/180829/wor1808290017-n1.html )。 中国はそういう国だ。 現地の記者たちが、日本企業に対する嫌がらせをまったく耳にしていなかったとは考えにくい。 記者の自主規制は、いまも続いている可能性がある。

 USTR報告を武器にトランプ政権が始めた対中貿易戦争は、日本企業の長年の鬱憤を晴らす側面がある。 もしもトランプ政権が勝って、( たいして期待はできないが )中国が脅迫と窃盗行為を止めるなら、日本企業にもプラスだろう。

 貿易戦争の激化をみて、中国に進出した日本企業は生産拠点の移転や日本回帰に動いているようだ。 それはそれで合理的な選択だが、中国の振る舞いについて口をつぐんでいる企業とマスコミ、それに政府の対応には、情けない面もある。

 保護主義の被害と、日本企業の強制的技術移転や窃盗阻止から得られる利益のどちらが大きいか、は一概に言えない。 とはいえ、米中貿易戦争で米国が勝てば、日本は勝者の利益にタダ乗りする結果になるのに、黙っているのはご都合主義とみられても仕方がない。

 貿 貿本質は変わらない。


 中国の言葉に、 「衣食足りて礼節を知る」 という 「菅子」 の言葉がありますが、現代の中国人は、古代の中国人の子孫ではない。 歴史を見れば古代の漢民族は北方からの遊牧民族に侵略されて何度も滅ぼされてしまった。 あるいは天災や飢饉に見舞われてほとんど餓死してしまったことも度々ある。

 だから現代中国人は、北方遊牧民族の末裔であり、文化も遊牧民族的だ。 だから世界各地に進出してチャイナタウンを作るのも遊牧民族だからであり、一ヶ所に定住する農耕民族とは異なる文化を持っている。 遊牧民族の文化は強いものだけが生き残る文化であり、農耕民族を略奪して生きてきた

 古代の漢民族の末裔は、DNAからすると雲南省の山間部に末裔がいるようですが、あるいは日本などに移り住んできた。 遊牧民族と農耕民族が戦争をすれば遊牧民族の方が圧倒的に有利ですが、遊牧民族は残虐非道でありモンゴル帝国の歴史を見ればそれがわかるロシアと中国はそのモンゴル帝国の末裔だ

 農耕民族と遊牧民族以外にも、漁業などで生活する海洋民族がいますが、日本は農耕民族と海洋民族の連合体になる。 日本やイギリスなどは島国であり、海洋民族の割合が大きい。 アメリカなども七つの海を支配する海洋帝国ですが、大陸では遊牧民族が圧倒的に強く、海では海洋民族が圧倒的に強い。

 米中の貿易戦争は、大陸国家と海洋国家の宿命の対決であり、地政学的に文化が異なるから摩擦が起きやすい。 中国にも沿岸部には海洋民族がいましたが、内部から押し出されるようにしてアジアの島国に逃れていった。 日本に米を伝えたのも中国南部から移住してきた海洋民族なのだろう。

 このように大陸国家の中国・ロシアと海洋国家の日本・アメリカとでは、基本的な文化が異なり、大陸国家では野蛮で強いほうが生き残るが、海洋国家では有能なものだけが生き残れる。 海洋国家では船を操らなければならないし無能な船長では難破してしまう。

 「1974年通商法301条に基づく、技術移転、知的財産、技術革新に関する中国の行動、政策、慣習に関する調査報告」 では、中国の不法な行為が報告されていますが、野蛮で圧力をかけてくる遊牧民族の特質が現れている。 それに対して船を操る海洋民族は、技術力や組織力がうまく働かないと船が難破して負けてしまう。

 そこの法律を守る民族と、法律よりも力だと信ずる民族の違いが表れわてくる。 もちろんアメリカも大陸でもあるから、力こそ正義という面がある。 だから中国人とアメリカ人は性格は似ているから最初は上手く行く。 しかしアメリカは海洋国家であるので基本的には法を重んする。

 日本やイギリスのように小さな島国では、悪さをして力で押し通すことは難しく逃げきれない。 ロシアや中国では物を盗んでも人を殺しても、大陸は広いから逃げきれる。 法を守らぬ民族をまとめるには独裁的な権力が必要であり、民主的な方法では国家が成り立たない

 だからころ中国は、国家ぐるみで圧力と脅迫の中には、不透明で裁量的な政府の取り扱いや出資制限、調達制限、明文化されていない暗黙の規則、中央政府や地方政府の指示、命令はもちろん、サイバー攻撃による不法な知的財産の窃盗も含まれるという事になってしまう


( 2018.12.08 )


 ラビア・カーディル元世界ウィグル会議議長が中国のウィグル政策に対して、「米国は目覚めた」と語っている。

 自由や民主主義、法の支配は古代から幾多の哲人や革命などを経て確立され、近代社会になると人権も重視され、今日では普遍的価値とされている。

 また、17世紀半ばのウェストファリア条約体制で、 「国家主権の尊重」 が確立され、普遍的価値と共に現代の国際社会を律する基本とみなされている。

 そうした中で法の支配を無視する韓国、自由や人権も含めた普遍的価値観を蔑にする北朝鮮などの独裁国家も依然として存在する。

 ところが中国は、中華思想や華夷秩序も手伝ってか、普遍的価値観を認めず、他国の国家主権の侵害も平然と行い、覇権を追求してやまない国であるようだ。


 ピルズベリー博士の指摘

 米国のマイク・ペンス副大統領はハドソン研究所で行った10月4日の演説で、対中対決の姿勢を明確にした。
「ソ連の崩壊後、中国の自由化は避けられないと想定した」
「自由が経済的だけでなく政治的にも拡大することを期待した」
 こう述べ、そのため 「楽観主義をもって米国経済への自由なアクセスに合意し、WTO( 世界貿易機関 )にも加盟させたが、その希望は満たされなかった」 と断言したのだ。

 副大統領は、ハドソン研究所理事のマイケル・ピルズベリー著 『China 2049』 の論拠をなぞるような形で演説した。

 ピルズベリー博士は、もとCIA( 米中央情報局 )の高級職員として米国の歴代政権に仕え、1973年から中国各軍の将官や政府の強硬派と仕事をしてきたと自認する人物である。

 コロンビア大学の博士課程時代の政治学の指導教官は 「西洋と日本がいかに中国を不当に扱ってきたかを強調し、 『贖罪すべきだ』 と示唆した」 と述べる。

 その結果、中国を研究する米国人の多くは 「( 中国を )西洋帝国主義の気の毒な犠牲者」 と見做しがちであるという。

 「中国を助けたい」 という願望と、 「犠牲者という中国の自己イメージ」 を盲信する傾向が米国の対中政策の軸となり、 「中国分析の専門家による大統領などへの提言」 にも影響を与えたという。

 『China 2049』 は、博士が50年間中国に関わってきた集大成として2015年に上梓したものである。

 中国専門家として中国の軍部や諜報機関に誰よりも通じていたと自負する著者が、朝鮮戦争、中ソ関係、ニクソン訪中、天安門事件などに関わる中国の考えを米国は少しも理解していなかった、というから驚きである。

 ピルズベリー氏と同じように、ジョージ・ワシントン大学のロバート・サタ―教授なども中国の攻撃的行動を過小評価していたことを告白している。

 中国が依然として 「孫子」 の国であったことを如実に示したというべきであろう。

 そこに習近平氏が登場し、鄧小平の遺訓ともいうべき 「韜光養晦」 の終焉を告げたのである。

 「中華民族の偉大なる復興」 を掲げて権力を集中し、 「中国製造2025」 で世界一の軍隊を作り上げ、太平洋の二分を目指すと公言したのだ。

 そのベースになる研究や技術は米国や日本など先進国の知財窃盗によるものである。

 中国が米国に対峙する、あるいは凌駕する覇権国家を目指すと闡明するに至っては、好意的にサポートしてきた米国も黙っているわけにはいかないと立ち上がったのだ。


 中国の条約破りに加担した米国

 日本で参事官として1919年まで2年間勤務したジョン・マクマリーは、帰国後は国務省で極東部長や国務次官補を務め、1925年から4年間、公使として中国で勤務する。

 1921~22年のワシントン条約会議にも参加し、中国の主権や領土をいかに保全するか真剣に議論されたことを知り尽くした人物である。

 また、米国が英国に代わって世界のリーダーに躍り出る仕組みを仕かけ、日英同盟もこの時に破棄されたのだ。

 しかし、中国は条約違反を繰り返す。

 日本が被害を受けている事実を中国の後見人ともみなされた米国に訴えると、逆に日本の対応に異議を唱える始末で、中国を諫めるどころか増長させていくことになる。

 そうした顛末については、マクマリーが 『平和はいかに失われたか』 に詳述している。

 米国がもっと日本の言い分に耳を傾け、また約束を守らない中国に強く当たったならば、状況は全く変わったであろうというのだ。

 著名な外交史家のジョージ・ケナンやジョセフ・グルー駐日米国大使もマクマリーの見識を高く評価していた。

 特にケナンは、ワシントン条約破り常習犯の中国に日本が苦労していることや共産主義に日本が対処している実情を米国が理解していれば、その後の米国がソ連という共産主義国に対処する必要は起きなかったといったニュアンスのことを述懐している。

 日本人で当初共産思想に憧れ、米国に帰化したカール・カワカミ( カールはカール・マルクスに由来 )は、後に米国紙誌の論壇で保守思想家として活躍する。

 1930年代、満州や中国本土なども視察し、中国を最も知っているのは日本( 人 )であると述べ、その日本の忠告に耳を傾けない米国に意見する。

 実際どのように米国が親中反日的行動をとっていたかを、下記2人の米国人が教えてくれる。


 中国の宣伝に踊ったルーズベルト大統領

(1)フレデリック・ウイリアムズの忠告

 ウイリアムズは少年時代に外人部隊に所属し、その後は世界各地を放浪する冒険者的生活を続け、新聞で発表していた経験からジャーナリストになる。

 支那事変前の日本軍と中国軍にも従軍して取材し、正義感はどちらが持ち合わせているか、また共産主義の危険性などを警告する。 日米と米中の貿易についても商務省統計を使って事実を明かす。
「西洋諸国はアンチジャパンで、( 中略 )日本が負けたら、ソビエトがあらゆる国を中国貿易から締め出し、共産主義の垂れ幕の下に宝の山を運び入れるだろうという事実を彼らは考慮に入れない」
「ロシアの脅しが聞こえている。 いままさに行動に移ろうとしている。 日本はいまにも世界のパワーになろうとしているソビエトを阻止しようと一人で戦っている」
「我々が日本に1ドルを支払うごとに、彼らは20ドルをアメリカに支払っている。 日本は1937年では、アメリカから41%以上を買っている」
 また、1936年と37年の米国の対日中貿易額の細部にわたる統計資料( 36年:対日出超額3179万1000ドル 対中入超額2681万7000ドル、37年:対日出超額8417万6000ドル 対中入超額5391万9000ドル )から、両年で対日出超額は5238万5000ドルの164%増加に対し、対中入超額が2710万2000ドル、10%増加を示す。

 そして、「日本は西洋の工場で生産された農業機械類、鉄道資材など、無数のものを必要とした。( 中略 )アメリカ人が目覚め、外国のプロパガンダの手先になることをやめれば、このビジネスに参加できる」 と、真実に目覚めるよう訴える。

 蒋介石のプロパガンダについては 「かつてなかったほど沢山の偽物写真がアメリカの新聞雑誌にこっそりと挿入されている。 彼らは次々と人々に恐怖を起させようと、実にタイミングよくリリースしていった」 として、上海の爆撃で破壊された廃墟で泣き叫ぶ赤ん坊の写真を例示する。
「世界中に配布されているから、偽物だと論破するにはもう遅い。 ( 中略 ) 『無法行為』 をしでかした 『非人間的な日本人』 への反感から、義憤が立ち上がってきた。 このような写真は沢山ある。 …… そして日本の敵には大変な名声を博している」
「没落し行く紹介石政府は絶望したあげく、アメリカ人が結果として干渉してくることを期待して、まず同情を、それから援助を獲得しようとして宣教師たちにすがり寄った」
「宣教師がやろうとしたのは、アメリカ人からの寄付であった。 ( 中略 )彼らは軍閥の支配体制、泥棒性、いかさま性、不信性、道徳的堕落、野蛮性、ふしだら、賄賂といったことには言及しない」
「これらは役人にも大衆にも共通する中国人の日常生活である。 彼らは 『素晴らしい』 ところ、哀れを誘うところ、同情を喚起するところしか言わないのだ」
「中国人は善意で貧しくて、西洋世界とキリスト教が彼らに与えられるものを評価し、あこがれていると」

(2)ラルフ・タウンゼントの警告

 タウンゼントはコロンビア大学卒業後、新聞記者、大学講師を経て外交官となり、カナダから1931年に中国に赴任する。 上海、厦門、福州で領事として2年勤務する。

 中国に対する知識をほとんど持たずに赴任した実体験から、中国人の生き方や社会観、国家観などが自分の国と著しく違うことを知り、同時に米国が行っている援助や布教活動は全く無意味なものであると考え、外交官を2年で辞職する。

 中国の本当の姿を知るのは宣教師、事業家、外交官らであるが、宣教師と事業家は本国からの援助や事業継続のために真実を覆い隠し、外交官は美辞麗句の建前報告をする一方で、日本の脅威のみが誇張されたという。

 中国の本当の姿を米国人に知らせる必要があるとして 『暗黒大陸 中国の真実』 ( 1933年 )を書き上げる。

 その後も大学講師の傍ら米国の極東政策のあるべき姿を示し、米国人の間違った日本観、中国観を執筆や講演・ラジオで糾すことに明け暮れる。

 ルーズベルト大統領が進めている極東政策、なかんずく対日政策の誤りを質すものだけに、言論弾圧にも似て出版も放送も制約され、自宅あてに希望冊数などを寄せた者へ配送するなど大変な窮状の中でやらざるを得なくなる。

 サンフランシスコのラジオ局から放送された原稿などを集めた 『アメリカはアジアに介入するな!』 では、中国発信の嘘を米国が拡大発散していく状況を、軍隊の規模や商務省の統計などを活用して明らかにしている。

 当時の米欧諸国は 「狂犬病的日本軍国主義の恐怖にさらされている」 という話で持ちきりであるが、タウンゼントは 「いかなる証拠があっての言い分か?」 と訝る。

 そして 「最大限入手可能な中立国の資料を総合して弾いた兵力」 を、中国225万人、ソ連130万~150万人と紹介し、同時期の日本の常備軍は列強中最小の25万人だという。

 しかも、中国とソ連は合体し400万人の兵力と圧倒的優位な資源で日本に対処してくる恐れがある。 これでどうして 「( 日本が )世界征服を企てる」 と言えるのかと疑問を呈する。

 日本は 「米国を脅したことは一度もない」 し、 「どこの国よりも米国に対して丁重であり、借金をきっちり返済する唯一の国である」 と事実に基づいて言う。

 軍国主義ばかりでなく、日本の印象を悪くするためにありとあらゆる偽情報、例えば最大の海軍増強国、独裁国家、未開の国、侵略国家などが流されているという。

 他方で、 「民主主義の中国」、 「平和愛好国家中国」 と称揚し、 「孤立するアメリカ」 と際立たせて、すべての原因が日本にあると言わんばかりの一色に染め抜かれた状況に言及する。

 こうした 「反日アジは、中国の領土を保全しようとして起きたものでないことは明らか」 という。

 なぜなら、1895年( 日清戦争 )から1910年( 韓国併合 )までずっと日本が領土を拡張していた頃、 「アメリカの新聞は大の親日」 であり、西海岸の一部の新聞を除いて1918年( WW1終了 )まで 「心から日本を支持」 していた。

 実際、親日世論もあって日露戦争( 1904~5年 )時、クーン・ローブ社のニューヨーク銀行のジェイコブ・シフはかなりの額の融資を行う。

 タウンゼントはこうした真実を米国民に訴え続けるが、米国政府の( 日本を敵に仕立てる )政治的企みがもたらす悪意の宣伝に抗すべくもなく、前述のウイリアムズともども、日本を好意的に報道したとして外国代理人登録法違反で囚われ、日米開戦数か月後から囚われの身となり刑に服する。


 米国の対中認識は遅すぎた

 米国の中国専門家や政治家が中国に対する敵対心を高めている。 しかし、ざっくり言えば、上述のように政治的思惑から放任してきたわけで、寝ぼけた話である。

 日清戦争は中国の約束破りから起きたもので、日本はそれ以前から中国の狡猾に気づいてきたし、諸外国に警告も発してきた

 しかし、諸外国、特に米国は一向に耳を傾けないどころか、日本を悪者に仕立てて批判するばかりで、日本は孤軍奮闘する以外になかった

 こうした状況は昔話ではなく、今でも南京事件や慰安婦問題などに受け継がれている

 中韓の誇大宣伝は真よりも偽の拡大をベースにしている対する日本は物事の真髄を指摘して、さほど騒いだりしない

 ところが、多くの米欧メディアは偽を騒ぎ立てる中韓に加担して、 「日本=悪」 という前提を固守しているように見受けられる

 「一帯一路」 に関係する諸国は、中国の底意に気づき、プロジェクトに疑義を持ち始めた。

 これらの諸国よりも1世紀以上も長く中国と関わってきた米欧諸国もマーケットの大きさなどに幻惑されることなく、中国の本質をしっかり見極めてほしいものである。





( 2019.01.09 )


 中国江蘇省の 「南京大虐殺記念館」 が2017年12月14日、リニューアルを終えて一般公開を始めた。

 しかし、産経新聞の河崎真澄記者の報道(2017.12.15)によると、 「南京大虐殺の史実を世界に周知させた」 として顕彰された朝日新聞の本多勝一元記者らの写真と資料が撤去されていたことが分かったという。

 河崎記者は日本軍が朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言報道が 「虚偽だった」 と朝日新聞が認めたことなどから、同紙の過去の報道の信頼性に疑念をもたれる恐れがあると判断した可能性があるとしている。

 一方、習近平主席が2015年の公式訪英時、エリザベス女王主催の晩餐会で 「日本侵略者の暴行を暴く記事を発表した」 などと英国人記者を称賛して中英の友情物語として紹介したことがある。

 ところが、岡部伸(産経新聞ロンドン支局長)氏の調査で件の記者は南京に行っていなかったことが判明した。 筆者はこの失態の影響もあるのではないかと思料している。

 嘘は大きければ大きいほど愛国心が強い証とされた 「愛国虚言」 ゆえか、本多氏のルポルタージュ 「中国の旅」 (1971年)以来、 「南京大虐殺」 は拡大の一途をたどり独り歩きしてきたが、展示品の撤去や事実を確認しない虚偽の紹介は、矛盾の露呈ではないだろうか。


そもそも 「南京事件」 とは何か

 支那事変(日中戦争、日華事変とも呼称)は、北京近傍の盧溝橋事件(1937年7月7日)で始まり、3週間後の29日には日本人居住地を守っていた中国の守備隊が反乱を起こし、250人余の猟奇的殺害、処刑を行う 通州事件 が起きる。8月9日には上海に拡大した。

 「中国に深入りするのは泥沼に踏み込むようなものだ」 と不拡大を主張していた参謀本部の第1部長石原莞爾少将や慎重論の米内光政海相も堪忍袋の緒を切らし、作戦を限定する方針のもとに上海への出兵に同意する。

 9月にかけて2個師団強(第3・第9師団、1個支隊)が松井石根大将を総司令官とする上海派遣軍として派遣された。

 他方、蒋介石の中国側はドイツから招いた将軍の指導下にチェコ製機関銃を配備するトーチカを構築して、75個師団(約75万人)の大兵力を布陣していた。

 日本側は苦戦を強いられ、11月には予備役まで招集した第10軍(第6・第101師団、1個支隊)を増派、北支から第16師団も転用して上海派遣軍に編入し、中支那方面軍(司令官松井大将)を編成した。

 5個師団基幹でも総兵力は約7万人で、国民党軍の10分の1以下でしかなかった。

 蒋介石は住民を盾にする戦術を採り、住民を巻き添えにしたくない日本軍は至る所で思わぬ抵抗を受け、20キロを進むのに1か月余を要した。

 その後の南京までの三百数十キロの追撃が30日であったことからも、上海戦の激烈さが分かる。

 日本軍が南京攻略戦を開始したのは12月8日である。蒋介石は前日に南京を脱出する。

 松井方面軍司令官は9日1600に翌日正午までの停戦命令を出し降伏を勧告するが返答なく、10日1300に攻撃を再開した。

 日本軍の攻城に耐え切れず南京防衛軍司令長官の唐生智が12日夜脱出すると、13日早朝に南京は落城する。その後城内の掃討戦を行い、17日に松井司令官を先頭に入城式を行う。

 日本軍の意向もあって、12月23日には早くも南京市自治委員会が成立し、翌1938年1月1日を期して発会式を挙行している。

 城壁上に上がった陶錫三会長は城下に集う民衆に対して 「ここに敵の主都は甦生へのスタートを切った」 と宣言する( 「アサヒグラフ」 昭和13年1月26日)。

 「南京事件」 と言われたものは、米人宣教師たちが後々の布教のために、 「城内における日本軍の暴行」 をでっち上げ、国際世論や南京市民の支持を得るプロパガンダであったとされる。

 従って、城内の暴行報告は日本軍の南京入城(12月13日)から翌38年2月上旬までの約6週間であった。

 しかし、この間の暴行報告を見ても強姦、掠奪、放火などで数も多くなく、虐殺と思われるような事象は見られない。

 事実、南京戦以前は100万人いた市民の多くは戦火の拡大と共に脱出した。

 残った20万人もドイツ人ジョン・ラーベを長とする国際委員会が設定した安全地帯(安全区や難民区などの呼称もあり、皇居前広場の約4倍)に収容され、安全区外の城内にいる市民はほとんどいない状況であった。

 しかも、城内の人口は日本軍の入城後も減ることはなく、2月頃は25万人と推定されるまでになっていた。

 この時点で南京市民虐殺30万人説は成り立たず、「南京大虐殺」の虚構は崩れ去る。

 しかし、大虐殺は 「あった」 派は満足せず、何時しか上海戦から南京攻略に至るまでとしたり、南京攻略戦以降の数か月にわたる期間などとするように変化させていく。

 また、歴史家で 「日本 『南京』 学会」 理事でもある冨澤繁信氏は、大虐殺の出発点となった6週間内の 「南京安全地帯の記録」 を丁寧に翻訳・研究し、安全地帯の記録で 「兵士」 と書かれているのを一方的に 「日本軍兵士」 とする恣意的誤訳などを指摘している。


本多氏 『中国の旅』 での記述

 日本軍が南京に近づく状況を本多氏の 『中国の旅』 は、 「ここに至るまでに、すでに膨大な数の住民が殺されています」 と書いている。

 日本軍が入城すると、10万人以上いた蒋介石軍の高級将校は家族を連れ、また主な将校らも北側の2つの門から逃げ出し、門を閉め外から錠をおろして遮断する。

 そこに大衆が押し寄せると、 「日本軍は機関銃・小銃・手榴弾などを乱射した。 飢えた軍用犬も放たれ、餌として食うために中国人を襲った。 二つの門に通ずる …… 大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した」。

 日本軍は 「二つの門を突破して、南京城外へくりだした。 長江ぞいに下流(北東)へ、 …… と虐殺をすすめ、さらに南京城北7キロの燕子磯では10万人に及ぶ住民を川辺の砂原に追い出しておいて、機関銃で皆殺しにした。 …… このときまでに、南京城内も合せて約20万人が殺されたとみられている」 と記している。

 本多氏に語る姜根福氏は 「アヒルがたくさん浮いているかのように、長江の水面をたくさんの死体が流れていた光景が、今でもはっきりとまぶたに浮かびます」 と語る。

 続けて、 「虐殺は大規模なものから一人、二人の単位まで、南京周辺のあらゆる場所で行なわれ、日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦を受けた。 紫金山でも2000人が生き埋めにされている。 こうして歴史上まれに見る惨劇が翌年二月上旬まで2カ月ほどつづけられ、約30万人が殺された」 と語るのである。

 このわずかな引用でも異常な殺し方が見られるが、姜が伍長徳さんから聞いた話として次のような記述がある。
「( 日本兵は )逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり、高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた」

「 …… 下で火をたき、火あぶりにして殺した。 集めておいて工業用硝酸をぶっかけることもある。 苦しさに七転八倒した死体の群れは、他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、骨と皮が離れたりしていた」

「( 化学工場では )強制連行に反対した労働者が、その場で腹をたち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。 日本兵はあとで煮て食った」
 残酷な殺し方が出てくるが、日本人にはなじめない方法ばかりである。

 中国の古典 『資治通鑑』 にはこうした殺し方が記述されていると言われ、正しくこれらは中国4000年の歴史でしかないようだ。

 なお、南京は幾度も事変に見舞われ、その度にこうした殺戮が繰り返された都市でもある。


ごまかしに終わった藤岡氏との誌上討論

 「週刊文春」 (2014.9.4号)が 「朝日新聞 売国のDNA」 で、 「本多氏は事実とかけ離れた 『南京大虐殺30万人説』 を流布させた人物だ」 として、上述の 「歴史上まれに見る惨劇 …… 」 を引用したうえで、藤岡信勝拓殖大学客員教授の 「この記事は本多氏が中国共産党の案内で取材し、裏付けもなく執筆したもので、犠牲者30万人などは、まったくのデタラメです」 とのコメントをつけていた。

 このコメントに対し、 「週刊金曜日」 編集部から 「週刊文春」 編集部に 「公開質問状」 が届く。

 両者の意を受けた両編集部が相談した結果、誌上での公開討論を5回行うことになるが、藤岡氏の第1信に対する本多氏側の 「週刊金曜日」 からは本多氏とA記者が対談する変則的な形の第1信が届く。

 これでは2対1の討論で、しかも討論相手の本多氏の発言は10%位(全5信の文字数6000字中の比率)でしかないという。

 藤岡氏が 「本多氏との誌上討論には同意したが、正体不明の 『A記者』 なるものと討論することを承諾した事実はない」 から 「心底驚き、呆れた」 「卑怯であり卑劣である」 「責任逃れ」 だと詰るのも頷ける。

 平行線というか不毛に終わったように、日中間の最大の歴史戦は南京事件である。

 当時、南京に派遣された特派員は朝日新聞約80人、東京日日(現・毎日)新聞約70人、同盟通信社約50人など、総計200人超とみられ、また 「アサヒグラフ」 などの写真報道も盛んに行われた。

 こうした資料が 「南京事件」 を全くと言っていいほど扱っていないのは、そもそも事件は 「なかった」 という最大の傍証ではないだろうか。

 筆者がJBpress 『欺瞞にみちた創作か、本多勝一氏の 「中国の旅」 ― 「柳条湖」 をルポルタージュで 「柳条溝」 とした顛末から読み解く』 に見たと同じく、当時の史料や関係者の発言などよりも中国側が長年にわたってシナリオを練り脚色した言説を信じるという 「本多ルポルタージュの破産」 (殿岡昭郎氏)ではないだろうか。


記者たちは真実の報道を怠ったのか

 南京城を陥落させるまでの数日間は城外で激戦が続くが、入城後に市民を虐殺したという報道はほとんどない。

 20万人と言われた市民のほぼ全員が安全区に避難し、安全区以外の城内外にいたのは中国の兵士だけであったとみられているからである。

 石川達三など一部の作家が日本兵士の悪逆非道ぶりを見たように東京裁判前に新聞に書いたが、後に 「大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。 …… ( 自分が以前書いた )あの話は私は今も信じてはおりません」 と否定している。

 当時の各新聞やアサヒグラフ、支那事変画報(朝日版、毎日版)などが報道している内容は、平和な日常が返ってきたという印象の記事や写真がほとんどである。

 しかし、8年後の南京裁判と東京裁判で、突如として20万とも30万とも言われる虐殺を日本軍がやったとして被告席に立たされる。

 戦闘に関わった万を数える将兵や当時現地で取材したほとんどの記者たちも、初めて聞く話に驚き、狐につまされた感じであったと述べている。

 前述の通州事件はたった1日の出来事で、記者らしい記者もいなかったが、翌日からは各紙が報道した。

 一方、6週間にもわたった南京戦では200人を超す内外記者・カメラマン、作家・画家、内外の外交官などが居合わせながら、誰一人として 「虐殺」 など語らなかったのだ。

 松井石根・中支那方面軍司令官は入城に先立ち9日、唐生智・南京防衛司令官あてに降伏の勧告を行っている。

 主旨は南京には歴史遺産が多くあり破壊するに忍びないし、また罪のない民衆が傷つくおそれがあるので南京を開放せよというものであった。

 しかし、指定時刻になっても南京城からは何の反応もなく、勧告を無視したので攻撃命令が発せられた。 日本軍は激しい攻城戦を繰り広げながら包囲網を確実に狭めていった。

 南京を逃れて重慶に政府を移転した蒋介石さえ、内外への宣伝と支援要請のため開いた300回もの記者会見で 「虐殺」 には言及していない。

 のちに政権を取る毛沢東も 「自分が政権を取れたのは皇軍のお蔭」 とは述べるが、虐殺非難など一切しなかった。

 「虐殺」 ほど世界を驚かし、同情を誘い支援要請に好都合な宣伝であろうに、 「一切しなかった」、いや 「できなかった」 のはなぜか。答えは言うまでもないであろう。


暴虐を働いたのは支那兵だった

 1937~38年の日中戦争当時、蒋介石や国民党軍の行動を実見した米国人ジャーナリストのフレデリック V. ウイリアムズは、 『中国の戦争宣伝の内幕 日中戦争の真実』 (田中秀雄訳)で、蒋介石の国民党が米国を巻き込んで、残虐極まる中国軍を糊塗して、悪逆非道の日本軍とするプロパガンダ大戦略を練り展開する状況を記している。

 本多氏の 「中国の旅」 は、中国にとっては 「飛んで火にいる夏の虫」 を捕えた場外延長戦ではなかったのだろうか。

 宣伝に長けた中国共産党のプロパガンダで、仕組まれた成果は 「南京大虐殺記念館」 の建設(1985年)にも繋がっていったのであろう。

 大阪朝日新聞(12年12月10日付)は、 「負傷兵締め出し」 「非人道極まる支那軍」 の見出しで、ニューヨーク・タイムス南京特派員の9日の報道を転載している。

 日本軍に圧迫されつつある支那兵が化学戦研究所や金陵公園内の政府要路の大人たちの広大美麗な邸宅に放火しているというのである。

 同時に、中国人負傷兵が城内に入って中国軍から手当てを受けるのを締め出すために門を閉ざしたと伝える。

 それどころか、城内で治療を受けていた負傷者までが城外に追い出され、自力で城壁を迂回して揚子江へ出るか、野垂れ死にする以外にない状況に置かれたとの報道である。

 日本軍との城外での熾烈な戦闘の一方で、支那軍自身が自国民や負傷兵士を手当てするどころか、死に至らしめている状況を作り出していたのである。

 同紙はまた、 「狂ふ支那軍の大破壊」 「外人の軍事専門家呆れる」 の見出しも掲げ、中立国の軍事専門家がニューヨーク・タイムス南京特派員に語ったことを報道している。

 それによると、 「日本軍の空襲砲撃の与えた損害は殆んど軍事施設に限られてをり、これを全部合わせてもなほ支那軍自身の手によってなされた破壊の十分の一にもたらぬであろう」 というのである。

 「支那軍は退却に当たり、不毛の原野や残煙立ち昇る廃墟を後に残して、これを日本軍に占領させた方が、ただ空しく退却するよりは、彼らの威信を高めるものだと信じてゐる」 からだという。

 そして 「今や日本軍の進撃を前に奥地に殺到する避難民は数百万に達してゐるが、支那政府が彼らを救済しようとしても何事もなしえぬ今日、彼らは如何にこの冬の衣食住を得んとするか、これは想像に余りあるものがあらう」 とも述べる。

 日本軍の手の届かないところで、南京市民や負傷兵たちがほかならぬ中国軍によって死に追いやられている状況を遺憾なく示していたのである。

 このように、中国政府や中国軍は、市民たちをあっさり棄民として見捨て、われ先にと安全なところに逃げて行った。

 日本軍が入城した時に見た死体などの光景は、中国軍が自国の市民を死に追いやった姿であったのだ。

 姜根福が語った 「南京城内も合せて約20万人が殺されたとみられている」 というのは、中国軍の仕業であったことが図らずも証明されるのである。


全体的に平穏な南京城内

 同盟通信社の前田雄二記者は開城と共に入城するが、 「まだ戦闘は終わってはいない。 城内の中国軍は統制を失ってはいたが、各要所に立てこもって一歩もひこうとしない部隊であった」 と相手のタフネスについてもしっかり記録している。

 そして 「浅井、祓川、高崎などのカメラは、この市街戦をとり続けた」 ( 『戦争の流れの中に』 )と書いている。 このように、城内の戦闘状況を撮りつづけていた同盟通信社のカメラマンだけでも3人がいたのである。

 当時の新聞などは戦闘状況を報道しているだけで、 「南京事件」 を報じていなかった。 先ほど述べたように、むしろ退却する中国軍の悍ましい状況を報道している。

 当時のアサヒグラフなどの写真を見ても、大人も子供もにこやかな顔の写真が多く、日本軍の入城を歓迎したという話はあながち嘘でもなかったことが分かる。

 そうした中で、蒋介石の宣伝戦に協力する外国人( 特に米国人宣教師など )や外国メディアが外電で針小棒大に事件を仕立てて報じたわけで、実際に戦争に関わっていた将兵や数百人もいた報道記者たちにとっては、初めて耳にすることで吃驚仰天以外の何物でもなかったというのである。

 戦後の中国共産党は、戦前・戦中の報道や東京裁判での判決などをベースに、日本に対し三戦でゆさぶりをかけているわけで、吟味なしに被災者たちの声を直接伝えることは、共産党の広報員になったも同然ではなかろうか。

 今日においても日常的に、自己正当化や数値の操作などは共産党が得意とするところである。

 南京の事象を日本軍の暴行として報道する外国人教授や米国人宣教師たちはどこにいたか、主として安全区に避難していた。

 危険地帯を歩き回っている記者やカメラマンらの目と、安全区に保護されている欧米人の目と、いずれが信ずるに足るというのだろうか。

 午後は残敵掃討戦になる。

 「敵は陣地を放棄する時は建物に火を放つので、黒煙がもうもうとあがる。 砲火と銃声がひびきわたり、市内には凄愴の気がみなぎった。 住民の巻きぞえをくうものもあり、中国軍の遺棄死体は多数にのぼった」 と前田記者は記す。

 また 「多くは兵服を脱いで住民に成りすました」 とも述べている。

 前田記者は13日から15日にかけ、何回となく南京城内を車で見て回っている。 旧支局が安全区内にあったということで、15日には安全区に入っている。

 「店はまだ閉じていたが、多くの住民が行き交い、娘たちの笑い合う姿があり、子供たちが戯れていた。 生活が生き残り、平和が息を吹き返していたのだ。 私は戦争で荒れた心が和むのを覚えた」 という。

 報道写真からもそうした情景をみることができる。

 14日の状況について、東京朝日新聞( 12月16日付 )はどういう報道をしていたであろうか。
「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。 14日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くと、もう全く戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。 住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数万の避難民が残留する。 ここにも又南京が息を吹き返して居る。 兵隊さんが賑やかに話し合って往き過ぎる」
 しかし、当然のことながらこの前後にも小競り合いの戦闘は継続しており、16日には日本兵が捕虜を銃剣で処刑している場面に遭遇する。

 その後、下関の挹江門に回ると 「まるで門をふさぐように中国兵の死体がぎっしり詰まっている」 場面に出くわす。

 また他の場所では銃で処刑しているところも見ており、別の記者が日本の兵士に勧められて中国兵を射殺もしている。

 翌17日が入城式で、約100人の報道陣が集まり、その中には西条八十、大宅壮一氏などもいたという。

 翌日、再度城内を車で走ると挹江門の死体はすべて取り除かれていたが、護送中に反乱を起こした 「夥しい中国兵の死体の山が( 揚子江岸に )連なっている」 のを目撃している。

 市民は安全区に保護されており、決して市民の死体などではない。

 戦いの相手であった国民党が発刊した当時の国民党軍の行動記録にも不法殺害や虐殺などの字は見出せない。

 前田記者たちは、同社の記者とは言うまでもないが、他の新聞社の記者らとも情報交換しており、自分一人の目で見たことではなく、南京戦場のあらゆるところから何百人もの記者らが見たり聞いたりした言行をベースに書いている。

 前田記者が城内を実見した状況や当時の朝日新聞が報道した内容、また国際連盟での中国代表であった顧維均等の発言・討議と、宣伝戦を得意とする中国共産党の息のかかった人物から本多氏が30余年後に聞き書きした内容と、どちらの信憑性が高いかは一目瞭然ではなかろうか。





( 2019.01.22 )


 習近平国家主席は就任後に日本糾弾のための国家記念日を3つ設定した。

 中でも南京事件を一段と強調し、12月13日を 「 『南京事件』 国家哀悼日」 としたのをはじめ、南京大虐殺記念館は約1年かけて、10年ぶりの大幅な見直しを行い、2017年12月にオープンした。


強弁で 「写真撤去」 も隠蔽


 最初のリニューアル( 2006~07年 )では、1985年のオープン時から日本の研究者らが南京事件と無関係であると指摘していた 「連行される慰安婦たち」 「置き去りにされ泣く赤ん坊」 など3枚の写真が撤去された。

 リニューアル・オープン直後の2008年1月、犠牲者30万人の表記は旧日本軍の 「非人道性」 を強調しているとして、上海の日本総領事館総領事が日本政府の 「問題意識」 を南京市幹部らに伝え、見直しを求める申し入れを行う。

 それから11か月後、 「産経新聞」 ( 2008年12月17日・18日付 )が 『中国の日本軍』 ( 本多勝一著 )や 『ザ・レイプ・オブ・南京』 ( アイリス・チャン著 )などで日本の残虐行為として紹介され、国内外で誤用されてきた3枚の写真の撤去を確認したことに触れている。

 また、 「日本の外務省は史実に反すると日本の学問状況を非公式に中国へ伝えていた。 問題写真の撤去は、こうした外交努力の成果といえる」 と主張する。

 朱成山館長は翌19日、次のように反論したという。
「3枚は戦争の背景を紹介する写真として使用したことはあるが、南京大虐殺そのものの展示で使ったことはない。 置き去りにされて泣く赤ん坊の写真は上海南駅で撮影されたもので、展示会 『上海で殺戮行為の日本軍、南京に向かう』 で使ったことはある」

「3枚の写真そのものは、いずれも歴史の事実に符合するものだ。 また、新館にこれら3枚の写真を陳列したことはそもそもなく、オープンから1年経っても1枚の写真も入れ替えておらず、日本外務省からの通知を理由に写真を撤去したような事実は全くない」
 2007年のリニューアルでは、当初の2.2ヘクタールから4.7ヘクタールに拡張し、従来の資料館( 中央に残置 )の東部に新資料館を建築し、西部に和平公園を展開した。

 旧資料館からは3枚の写真が撤去されたわけだが新資料館に変化があったわけでないことは確かであろう。

 こうした絡繰りを行なっていながら館長があえて反論の形で 「日本の指摘」 を否定したのは、 「共産党がやることに間違いはない」 と中国人民に言わなければ、 「アリの一穴」 で事後の収拾がつかなくなるからに違いない。

 中国一流の強弁であることを、賢明な日本人は容易に理解できよう。


南京大虐殺の目撃者に仕立てたつもりが ……


 2015年10月20日、エリザベス女王は習近平国家主席を主賓として迎えた晩餐会を主催した。 席上に添えられたのは1本30万円もする仏ボルドー産の高級ワインの 「シャトー・オー・ブリオン1989年」 だったという。

 1989年は民主化を求める学生を中国当局が武力で鎮圧し、多数の死傷者を出した天安門事件があった年で、中国が最も触れたくない年のはず。

 1989年ワインは暗喩の皮肉か、かけ値なしのおもてなしか?

 ワインはともかくとして、習主席が女王の前で話したのは中国が独豪などと合作した映画で描かれたジョージ・ホッグ記者の話しである。

 記者は赤十字職員と偽って南京に入城し、南京虐殺の現場を撮影したところ、日本兵に見つかり処刑される寸前に中国共産党の軍人に助けられるというストーリだという。

 習主席にとっては、 「南京大虐殺」 を現実に目撃した英国人記者で、日本の悪を暴く動かぬ証拠の現場写真を撮った人物である。

 暴露されることを怖れる日本軍が彼を処刑しようとしたこと、それを中国共産党籍の軍人が救助したこと、これは素晴らしい英中の友情物語であるし、女王を前にした晩餐会で話すにふさわしいこれ以上の題材は見つからなかったのであろう。

 ところが、この台本となったホッグの評伝 『オーシャン・デビル』 では、ホッグは1938年2月に上海に入国し、漢口を経て、黄石市( 湖北省 )に移り、ここで戦災孤児施設の教師を務めている。

 国民党が孤児を徴兵しようとすると、孤児60人を連れて1100キロ離れたモンゴル国境に近い山丹( 甘粛省 )に逃れる。 孤児たちを戦争から守ったということで、 「中国版シンドラーのリスト」 として評価されているという。

 ホッグは上海、漢口に滞在しているが、南京に入っておらず、しかも上海入国自体が、日本の南京占領( 37年12月13日~38年1月13日 )が終わった後であることが評伝から明確である。

 念のために評伝作家のジェームス・マクマナス氏に岡部伸・産経新聞ロンドン支局長がインタビューして確認したところによると、孤児を連れてシルクロードを横断した長征は真実だが、 「南京事件を目撃したことは映画の脚色」 であることをすんなり認めたという( 「エリザベス女王の面前で― 詐話師・習近平がまた大ボラ」、 『WiLL』 2016年11月号所収 )。

 なんと、中国の国家主席で、女王主催の公式晩餐会の主賓である習近平が、南京事件の 「創られた目撃記者」 の話をしたのだ。

 黒を白と言うどころか、ありもしなかったことを実在した友情物語に仕立てて語ったというから驚きである。

 ほかでもないが、 「南京大虐殺」 を存在させるあの手この手の苦労が生み出した、トンデモナイ顛末と言ったらいいのだろうか。


いよいよ本多氏の時代も終わりか


 今回のリ・リニューアルでは、驚くなかれ 「南京大虐殺の史実を世界に周知させた」 貢献で顕彰され、当人の顔写真や著書 『南京への道』 『裁かれた南京大虐殺』、中国取材に使用したペンやノート類が展示されていた本多勝一記者の写真と資料が撤去されたという。

 他方で、同記念館で 「国家哀悼日」 に指定する演説をした2014年12月13日の習近平国家主席の大きな写真パネルが展示された。

 以前の主席には確認されていなかったことで、いよいよ 「大虐殺記念館」 の政治性を強く押し出さざるを得なくなってきたのではないだろうか。

 中国国営の新華社通信は今回のリニューアルについて、展示内容のみで建物に変更はないと伝え、また展示入れ替えで、写真は約3分の2( 約2000枚 )、物品類は約3分の1( 約900点 )に絞り、 「史実の新たな証拠を集めた」 と評しているそうである。

 ここにも中国一流の言い回しが見られる。

 「史実の充実を図った」 ではなく、 「史実の新たな証拠を集めた」 というならば、写真を約1000枚、物品類を約2000点減らしたことをどう解釈すればいいのだろうか。

 本多氏らが南京大虐殺に関わるものとして掲載してきた 「多くの写真や物品類」 が、他の場所のものであったり、捏造され、あるいはキャプションのつけ替えであったりしたことが判明し、収拾できなくなったので削除したとしか思えない。

 南京大虐殺の周知貢献で顕彰された本多氏らの写真と資料が展示から外されたということは、 「南京大虐殺」 を支えてきた 「動かぬ証拠」 としての写真( や資料 )という土台の一角が 「揺らぎ始めた」 ということではないだろうか。

 さらに以下の様な検証を進めていくと、いよいよ 「南京大虐殺」 は 「あり得なかった」 架空の物語、虚構ではないのだろうか。

 間違いがないように付言すると、特に蒋介石とその軍は市民を盾にする戦術をとり、上海戦から南京に至る途上の1か月にわたる戦闘、そして南京攻略戦、さらには安全区に収容された市民20万人に紛れ込んだ約2万といわれた便衣兵( 軍服を脱ぎ捨てて市民に成りすまし、兵器を隠し持つ兵士 )の掃討・処分、あるいは反乱捕虜の鎮圧などで、多くの中国兵士と市民が巻き込まれた。

 しかし、それは虐殺ではなく通常の戦闘行為で、戦時国際法に悖るものではない。


写真検証の驚くべき結果


 東中野修道・小林進・福永慎次郎共著 『南京事件 「証拠写真」 を検証する』 ( 草思社、2005年刊 )は、南京大虐殺の証拠として使われている写真143枚を総括的に検証したものである。

 3人がこの枚数に絞り込むまでに各種資料で見た写真は重複を含めると3万点以上になるということである。

 影の長さや服装から大虐殺が起きたとされる冬ではないことや日本軍の物でないこと、また検討当時公開された中国国民党中央宣伝部の極秘文書などを援用して国民党の戦争プロパガンダ写真との比較、初出( 源流 )から転載されていく写真の流れなど、緻密かつ多角的な検証に3年の歳月をかけている。

 その結果は、 「( 南京大虐殺の )証拠写真として通用する写真は1枚もなかった」 というものであった。

 そもそも、記者らしい記者がいなかった通州事件でも、1日もすれば事件は知れわたり、記者やカメラマン、作家らが駆けつけ、調査し事実である状況を生々しく報道している。

 ところが、6週間続いたとされる南京事件については虐殺の現場を誰一人確認しておらず、城内にいた米国人宣教師たちが窃盗や強姦、放火などを散発的に発信し、 「WHAT WAR MEANS( 戦争とは何か )」 に纏められる。

 その本やそこに収められた写真などを宣教師が米国に持って行き、国内を隈なく普及して歩き、拡大させていったのが実態である。

 それは 「日本を敵に仕立てる」 というルーズベルト政権の意図にも添うもので、宣教師は国内普及が許されたし、こうして流布した 「日本軍による虐殺」 の情報が在南京の日本軍に逆流し、現地の日本軍は 「そんなことがあったのか」 と驚かざるを得なかったわけである。

 蒋介石政権が、武力では勝てない日本軍に対してとった、 「無から有を生じた」 典型的な戦争プロパガンダと言う以外にない。

 幾つもの写真のキャプションをつけ替えて、 「日本軍の悪行」 に仕立ててきた。 展示写真はそうした代物であったのであろう。

 偽の文書や写真などが世に出て、いかにも真実であるかのように装い広がっていく。

 そうするとさらに拍車がかかり、もっと隠された事実があるに違いない。 そして偽物がまた見つかると、 「ほら、あった!」 となり、何時しか 「本物面に変容していく」 という仕かけであったのであろう。

 こうした絡繰りを心ある米国人記者や外交官らは見抜いていた。

 しかし、日本に戦争を仕かけたいルーズベルト政権は、蒋介石の戦争プロパガンダに宣教師を介して進んで協力し、運よく開戦にこぎつけた後は心ある記者や外交官らを邪魔ものとして拘束し刑に服させていったのである。

 先日、中国外務省の華春瑩報道官がファーウェイの幹部社員逮捕に関してカナダを非難するにあたって、 「ウソは百回も言えば本当になると思っているようであるが、1万回言っても嘘はウソである」 と言っていた。

 この言は南京事件について語っているように聞こえてならなかった。


南京大虐殺はどのように広まったか


 本多氏の1971年のルポルタージュ 「中国の旅」 は、4部40回( 第1部 「平頂山」、第2部 「万人坑」、第3部 「南京」、第4部 「三光政策」 )からなる。

 8月から12月まで朝日新聞に連載され、 「朝日ジャーナル」 や 「週刊朝日」 でも連載され、写真の一部は 「アサヒグラフ」 でも発表されるという状況であった。

 朝日新聞社はこれらのルポを纏め、さらに加筆した単行本 『中国の旅』 を翌1972年に発刊している。 並行して 「目で見る中国の旅」 に類するものとして写真に重点を置いた 『中国の日本軍』 もこの年に創樹社から出版する。

 『中国の旅』 は1977年には 「すずさわ書店」 が、95年には 「本多勝一集14」 として朝日新聞社がまたまた出版した。

 その間の1981年に朝日は文庫版 『中国の旅』 も出版する。 手元の21刷版は1995年10月発行となっており、かなり版を重ねていることが分かる。

 本多氏は1987年には朝日新聞社から 『南京への道』 を発刊し、翌88年には本多氏ほか2名の共著で 『南京大虐殺の現場へ』 を同じく朝日新聞社から発刊している。

 こう見てくると、1970年代から90年代のほぼ30年間に 「南京大虐殺」 は根を張り枝を伸ばして大木に育っていった時代の様である。

 本多氏や朝日新聞の南京関係本の出版に刺激を受けたように、中国人民政治協商会議江蘇省南京市委員会文史資料研究委員会編 『史料選輯( 侵華日軍南京大屠殺史料専輯 )第四輯 』( 1983年 )、南京市文史資料研究会 『証言・南京大虐殺』 ( 84年、青木書店 )、 『侵華日軍南京大屠殺暴行照片集』 ( 85年 )などが出版される。

 こうした流れを鄧小平が汲み取るかのように南京大虐殺記念館を1985年に竣工させたのである。

 そして全米というか全世界に衝撃を与えたのが若き中国系アメリカ人女性アイリス・チャンの 『ザ・レイプ・オブ・南京』 ( 1997年 )であった。

 日本の斎藤邦彦駐米大使がアイリス・チャンとのテレビ対談に臨んだのは翌1998年12月。

 ところが大使は外務省の反論例にもれず、日本の教科書は南京虐殺をしっかり記述していると強調するばかりで、日本の研究者の中には諸説あり、全くのウソだと主張する説もあることなどに触れなかったし、当時20万人の南京で30万人の虐殺への疑問すら呈しなかった。

 こうした結果、対談の行方を見守っていた米国人の多くは、日本政府はこの事件を認めており 「南京市民が虐殺されたのは事実」 との印象を受けたようで、事態は悪化して大使の完敗とされた。


現場にいた前田記者が大虐殺を否定


 この流れに逆らうかのごとく、上海戦から第一線で取材し続け、南京戦の一部始終を同盟通信社の同僚特派員50人はおろか、朝日新聞( 約80人 )や毎日新聞( 約70人 )の特派員たちとも現地では意見交換などをしていた前田雄二記者が、1982年に 『戦争の流れの中に』 を善本社から上梓する。

 従軍当時も多くの記事を打電したが 「戦争中の厳しい検閲で、日本軍に不利な事実は差し止められていた」 から 「決して物事の全てを伝えてはいなかった」、すなわち 「真実が欠落していた」 として、残したメモからすべてを網羅することにしたメモワールである。

 上記前田本は南京に続く漢口攻略戦、仏印進駐、更にはシンガポール攻略戦まで全5部として実見したままに綴られ、第2部が 「南京攻略戦」 となっていた。

 旧陸軍将校の集まりである偕行社が指揮官や将兵の日記・手記など可能な範囲で集めた数千ページの資料で事実関係を究明し、虐殺の明確な証拠をつかむことはできなかった。

 しかし、上述のように、 「大虐殺」 が燎原の火のように広がり続け、 「大虐殺」 がいかにも真実であるかのようになってきたことから、前田氏は第2部だけを取り出して 『南京大虐殺はなかった』 として平成11( 1999 )年に再上梓した。


河村たかし名古屋市長の真摯な問いかけ


 平成24( 2012 )年には河村たかし名古屋市長が 「通常の戦闘行為はあったが、いわゆる南京事件というのはなかったんじゃないか」 と発言し問題となり、多くの日中友好行事が中止になる騒ぎに発展した。

 南京事件があったとされた8年後の1945年8月16日、市長の父君は歩兵伍長として同隊の250人と共に南京に入り、翌年1月まで郊外の寺に滞在したが、南京市民はとても親切に温かいもてなしをしてくれたという。

 父君は戦後50年の年に、感謝の気持ちで戦友と共に1000本の桜を南京市に寄贈する。 植樹10年目の2006年、たかし氏は父君の戦友たちと共に南京市を訪問し、南京大虐殺記念館にも行き、 「全日本人が南京に行って、土下座しても許されない行為だ」 との強烈な印象を受ける。

 同時に、 「南京事件からたった8年しか経っていないのに、中国人がそんなに親切な対応をしてくれるものだろうか」 と強い疑念を抱いたという。

 「そうでない( 大虐殺が嘘 )としたら、これは一言二言、言わせてほしいと思い、さらに勉強を深めていった」 と言い、同年6月13日には 「いわゆる南京大虐殺の再検証に関する質問主意書」 を政府に提出している。

 河村市長は、南京市との姉妹都市として友好関係を一層深めるためにも本当の話ができなければならない、棘を抜いてこそ本当の日中友好も始まるとの強い思いがあったという。

 当初中国は、南京市民30万人が日本軍によって虐殺されたと主張していたが、2018年6月24日に福田康夫元首相が訪問した際、館長は30万人という数字は南京に至るまで日本軍が戦争しながら殺害した人を含めた数字であり、南京市内にいなかった人を含む数字であると説明したとされる。

 他方で、昨年のリ・リニューアルでは世界に流布する原動力ともなってきた本多氏やアイリス・チャンの関係資料が削除されたという。

 これらは、 「南京大虐殺」 に大きな地殻変動が起き始めたことを意味するのではないだろうか。

 いよいよ、 「南京大虐殺」 の虚構が崩壊し始めたことを物語るものかもしれない。