10月初め、衝撃的なニュースが世界を駆け巡った。 無抵抗の少年と尼僧が中国の国境警衛兵に射殺される瞬間の映像だ。
 日本では一部のマスコミしかこの事実を伝えていない。
 アムネスティ・インターナショナルが確認している事件の経過は以下の通りである。
 9月30日、登山家たちの国際チームはヒマラヤで中国国境警備隊がネパールに逃れる途上のチベット人グループを狙撃する様子を目撃した。 グループの中には子どもたちの姿も確認されている。 尼僧のケルサン・ナムツォを含む少なくとも2名が殺害されたとみられる。
 6歳から10歳までの年頃の子どもたち9名と成年男性1名が中国当局によって拘束され、約20名が行方不明。 アムネスティ・インターナショナルは拘束された人々と行方不明の人々の、身の安全を懸念している。
 ベース・キャンプにいた登山家たちは、狙撃が中国から逃れる人々がエスケープ・ルートとしてよく使う氷河で覆われたナンバラ峠で、彼らから300ヤード離れた場所で行われたと述べている。
 中国側の警備隊は約70名のチベット人グループに2回威嚇射撃を行ったと報告されている。 グループは散り散りになり、次に警備隊はちょうどそのとき氷河を横切っていた20名の人々に照準を合わせた。 1名が倒れ、起き上がってからまた倒れる姿を登山家たちは目撃している。
 そして銃撃が起きてから約36時間後、警備隊が死体を回収した。 グループのメンバー43名は何とかネパールに逃れた。
無抵抗の少年と尼僧が中国の国境警衛兵に射殺される瞬間の映像( 保存版 )



朝日糞新聞 は新華社べースの記事

 この事件を新華社通信は以下のように伝えている。
9月30日早朝、約70人の人々がチベット自治区の中国・ネパール国境を違法に越えようとし、そのうちの1人が国境警備隊との争いの中で死亡した。
当局によると、不法に出国を試みるチベット人たちを発見し、家に戻るよう説得を試みたが、密出国者たちはそれを拒否して兵士を攻撃した。
国境警衛兵は自衛をせざるを得ず、2人の密出国者を負傷させた。
事件は大掛かりな密出国事件
 事件が外国登山隊のベースキャンプの目の前で起き、その模様が撮影されて、その後世界に公開されたため、難民たちを、密航者呼ばわりしていた新華社の英文翻訳記事バージョンには激しい非難が集中し、早々にウェブサイトから削除された。
 今回の事件を報道した数少ない日本のメディアのうち、朝日新聞はなぜか新華社ベースの記事を配信している。 しかもなぜかたった200字程度の短い記事だった。
 あまり知られていないが、日中間には日中記者交換協定というものがある。
  「日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束し、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどや、今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された」
 マスコミ各社の中国に対する報道姿勢にはこうした縛りが影を落としている。  しかし正確で偏らない報道を旗印にするジャーナリズムにとって、これは自殺行為ではないだろうか? …… なんて言ったところで糞新聞には無駄だろうけど。


チベット圧迫は 「解放」

 チベット問題は1949年10月1日の中華人民共和国の成立までさかのぼる。 国共内戦に勝利した中国共産党は中華人民共和国を成立させ、その後まもなく、北京放送は次のような放送を開始した。
  「人民解放軍は、中国全土を解放せねばならない。 チベット、新彊しんきょう、海南島、台湾も例外ではない」
 現在も時々耳にする台湾海峡の緊張関係も中国がそのとき掲げた目標を放棄していないことを表している。
 人民解放軍はチベットの 「解放」 を掲げ、1950年に東チベットのチャムドを制圧した。 以下年代をおってみていく。
1951年5月23日には、軍事的威嚇の下に、北京で、 「チベットの平和的解放のための措置に関する17ヵ条協定」 への署名を強要する。
1951年10月、中国人民解放軍ラサ到着。 中国は軍隊用の駐屯用地と兵士のための莫大な食糧を支給するよう、チベット政府に強要したが、これが引き金となって安定していたチベット経済は崩壊した。
1955年3月 北京政府はチベット政府に代わる 「西蔵自治区準備委員会」 の設立を提案
1956年4月 「西蔵自治区準備委員会」 が公式に発足
1959年3月10日 ラサでチベット民族蜂起勃発。 中国はチベット人8万7千人を殺害して蜂起を鎮圧、当時の指導者ダライ・ラマ十四世は8万人のチベット人とともにインドに亡命( 亡命政府 )
中国の周恩来首相は、チベット政府の解散を宣言し、これに対して、1959年4月29日、ダライ・ラマ十四世はインド北部の丘陵地ムスーリーに中央チベット行政府CTA( Centra1 Tibetan Administration )を新たに樹立した。 さらに1960年5月、インド北西部ヒマチャル・プラデシ州ダラムサラに拠点を移し現在に至っている。
 チベットはウ・ツァン、カム、アムド地方を含む250万平方キロメートルからなっていた。
 現在の 「チベット自治区」 は、ウ・ツァン地方とカム地方の一部から成り、面積は120万平方キロメートルとかつての半分以下しかない。
「チベット自治区」 以外のチベットは以下の地域に分割されている。
青海省
天祝チベット自治県・甘南チベット族自治州( 甘粛省 )
阿バチベット族羌族自治州・甘孜チベット族自治州・木里チベット族自治県( 四川省 )
迪慶チベット族自治州( 雲南省 )
 チベット亡命政府の発表によれば、文化大革命を含む1949~1979年の間に6千ヵ所以上もの仏教寺院が破壊され、約120万のチベット人が命を奪われた。 それはチベットの全人口600万のうち、5分の1に相当する。
 さらに、現在のチベットでは、宗数的指導者でもあるダライ・ラマの写真を所持したり、礼拝することは固く禁じられ、主な寺院は公安警察の監視下にある。
 表現そして結社の自由は厳しく制限され、その結果、大勢の人々が基本的人権を平和的に行使しただけで投獄されている。 中国の他の地域と同様に恣意的拘禁、不公正な裁判、拷問や虐待が普通に行われている。
  「チベットでの中国の存在と人権の侵害」 ( 1997 TCHRD( チベット人権・民主センター )発行 )では、次のような問題点が項目ごとに指摘されている。
  「宗教の自由、意見と表現の自由、政治犯、独断的逮捕と拘束、拷問、失踪、民族差別、女性の権利、子供の権利、人口移動、生存の権利、結論、勧告、産児制限と中絶・不妊手術の強制」


軍事利用の鉄道開通

 中国は2006年7月、中国が進める西部大開発の目玉的なプロジェクトのひとつである、青蔵鉄路( 青海チベット鉄道 )を開通させた。
 青海チベット鉄道は西寧-ラサ1956キロメートルで、さらにラサからチベット第二の都市シガツェまでの延長が決まっており、将来はヒマラヤを越えてインドまで延伸される壮大な計画である。
 この鉄道の運行によって、年間80万人の観光客がチベットを訪れるであろうと予想されている。
 しかし、この鉄道建設の目的は観光開発ばかりではない。 かつてインドと中国間の平和的な緩衝地帯だったチベットは、今では少なくとも30万の軍隊と、核ミサイル部隊の4分の1以上が駐屯する軍事的要衝になっている。
 チベットの複数の地域にはウラニウム鉱山があるし、アムドの北西部先端にあるツァイダム盆地は、その海抜の高さと隔離された地理的条件により、中国にとって最も有利な核兵器配置用地として知られている。
 また中国はチベットを、自国や他国の核廃棄物の投棄場として使用しているとも言われている。 中国核燃料総公司が、西側の核廃棄物施設に対して1キログラムあたり1500米ドルで施設を提供しているとの情報もある。


チベット人より多い中国人

 施設周辺では環境破壊が起き、中国人の地域住民には水の使用に関し、公式に警告が発せられたが、チベット人住民には一切伝えられなかったため、チベット住民の間で健康被害が広がっている。
 青海チベット鉄道は 「チベットの全民族、宗教、そして遺産の絶滅」 計画の仕上げの始まりとも言える。
 現在のチベットには中国人750万人が住み、チベット人が自らの地で少数派になっている。
 人口の急速な膨張は、もともとキャパシティのないチベットの自然環境の破壊を引き起こし、遊牧や農業を主体とするチベット人の生活は危機に瀕し、人々は飢えに苦しんでいる。
 現在、70パーセント以上のチベット人は貧困線( 最低限の所得水準 )以下の生活をしている。
 さらにチベット語の禁止、伝統的な行事や衣装の禁止など、チベット人のアイデンティティを喪失させる政策がとられている。 多くの国民から慕われているダライ・ラマ十四世の肖像は、僧院でも家庭の仏壇にも祀ることさえも許されていない。
「民族虐殺」 を意味する 「ジェノサイド」 という言葉がある。 これは、必ずしも肉体的な抹殺のみならず、宗教や文化、総じて民族的なアイデンティティの抹殺を意味する言葉でもある。
 今、チベットで行われていることはまさにジェノサイドであり、民族浄化である。


わが子を涙ながらに

 これらが先日のチベット難民射殺事件の背景である。
 中国の過酷な支配を嫌い、毎年2千から3千名のチベット人が雪のヒマラヤをネパール経由でインドに逃れている。 先日の事件のように中国兵に射殺されたり、ヒマラヤの山中でひっそりと凍死していく亡命者が後を絶たない。
 命がけでたどり着いた彼らも時として、中国の要求に応じて、国連の難民条約を無視したネパール当局によって強制送還されたり、兵士に金品を巻き上げられたり、性的虐待を受けたりする場合がある。
 難民の送還は違法である。 各国はノン・ルフールマンの原則を守る義務があり、この原則は生命や自由が侵害されたり拷問を受けたりする恐れのある国に人を送還することを禁じている。 これは国際的慣習法の基本原則である。
 これら亡命者のうち約3分の1がチベット式教育を求める子どもたちで、インド国内にあるチベット人学校に送られる。 チベットではまともな教育を受けさせることは出来ないから、親たちは愛するわが子を、身を切るような思いをしてインドに送り出している。
 彼らのうち何パーセントかは教育を受けた後、再び身の危険を冒してチベットに帰っていく。 他におおぜいの僧侶が修行のためインドに向かう。
 中国の占領支配下にあるチベット本土では、宗教活動が著しく制約されており、仏教を本格的に学んだり修行できる環境ではない。 そのため、現在でも毎年1千人以上の規模で、僧侶や尼僧、出家を目指す若者たちがインドの亡命チベット人社会へ殺到している。
 現在、難民の数は、亡命中に生まれた者を含めて、約13万4千人( 2002年12月現在 )。 インド:10万人、ネパール:2万人、ブータン:1千5百人、ヨーロッパ各国で3千7百人、オーストラリアとニュージーランド:2百人、アメリカ合衆国:5千5百人、カナダ:1千5百人、台湾:6百人、ロシア:30人、モンゴル:10人、日本:60人となっ ている。


胡錦濤とチベット

 余談だが、現在の中国の国家主席である胡錦濤は若き共産党テクノクラート( 専門官僚 )として頭角を表し、42歳で共産党中央委員会の常任委員になった。
 1989年から92年までチベット自治区の書記( ナンバーワンの地位 )を務め、1989年1月パンチェン・ラマ十世の謎の死、このあとラサで起きた大規模な暴動を戒厳令で押さえ込んだ手腕が、彼の評価をさらに高めたと考えられている。
 彼の在任中に次のような事件がチベットで起きている。
1988年9月、中国は、亡命政府に 「チベットの独立の件は出さない」 ことを条件として対談要請に応ずる姿勢を見せる。
1988年11月、胡錦濤が中国共産党チベット自治区党委員会書記に就任。
1989年1月、パンチェン・ラマ十世急死( 死の直前に中国政府を糾弾する演説をしていた )。 中国は亡命政府との会談の約束を反古にする。
1989年3月、ラサで大規模なデモ、戒厳令を宣言し鎮圧。 軍服を身にまとい陣頭指揮にあたる胡錦濤の写真を新華社が全土に配信している。
1989年6月、天安門事件発生。
1990年4月、チベットヘの戒厳令を解除。
1990年10月、チベット軍区中国共産党委員会の第一書記の兼任を任命された。
 ダライ・ラマは自由なチベットを求める闘いの中心人物となっている。 中国がチベットを占領している間に法王が死亡すれば、自由なチベットを求める闘いは、三つの主な理由によって必ず弱まるだろう。
 第一に、新しい転生者が探索される間、ダライ・ラマ不在の空白期間ができる。 これは、権威の喪失とチベット人の指導者不在を意味する。
 第二に、いったん新しい転生者が布告されれば、ダライ・ラマが完全に責任を果たすことができるようになるまでに数年の期間を要する。 この間に中国は彼らの対抗者たちを解き放ち、自由を求めるチベット人の闘いを抑圧する一層大きな機会を彼らに提供するだろう。
 最後に、最も憂うべきことは、中国がその前に傀儡のパンチェン・ラマを即位させておけば、この事実を利用して、傀儡にできそうな自分たちのダライ・ラマを選定することができる( ダライ・ラマとパンチェン・ラマはそれぞれ相互に相手の後継を承認する )。 この恐ろしいシナリオ通りに事態が進めば、自由なチベットを求める闘いはさらに苦しいものとなる。 中国政府が現在進めようとしているのは、この長期にわたる政治ゲーームであることは疑いようもない。


五輪までに人権状況を改善

 ダライ・ラマは非暴力を唱え、チベット抵抗運動を導いている。 亡命チベット人の中にはこれとは別の動きもあることは事実だが、彼らの運動が大きな力にならないのは、やはりダライ・ラマの存在が大きい。
 しかし 「非暴力的手段」 は地味でメディアの目に留まることはあまりない。 中国側の暴力は中国に配慮するメディアや政治経済界の意向もあって封殺されている。 チベット問題が大きな問題として扱われない構図はここにある。 問題の解決は国際社会の圧力や中国の民主化の動きとも絡んでいる。 チベット問題はまさに 「この長期にわたる政治ゲーム」 のなかにある。
 さて、アムネスティ初め、ICT( International Campaign for Tibet )は今年から北京オリッピックに向けて、オリンピックまでに人権状況の改善を求める世界キャンペーンを開始する。
 2008年のオリンピック開催までに人権状況を改善するということは国際オリンピック委員会との約束事である。
 ジャック・ロゲIOC委員長は2002年4月、BBCの 「ハードトーク」 という番組で、中国の人権状況の改善が満足のいくものでなければ行動を起こすと約束した。

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所HP
http://www.tibethouse.jp
アムネスティ・インターナショナル日本HP
http://www.amnesty.or.jp
アムネスティ日本・チベットチームHP
http://www.geocities.jp/aijptibet/index.html


第2の 「チベット」 になるな!

  「チベットから見た中国問題」 と題する、ペマ・ギャルポ氏の講演を聞いた。
 キャルポ氏はチベット人で、1959年にインドに亡命し、1965年に来日、日本で中学・高校・大学、大学院などを卒業し、現在は桐蔭横浜大学法学部教授であり、知日派でもある。
 1時間半に亘るチベットの 「悲劇」 から導かれる彼の日本人に対する警告には、聴講者も息を詰めていたように感じられた。
 中国が 「不透明」 な理由について、彼は ①中国自身が不透明、 ②日本のメディアが作り上げた事による、と分析した。
昔はチベットと中国の関係は 「寺と檀家」 の関係だったが、 「反チベット」 行動の元には、いわば劣等感の裏返しとしての孫文の中華思想があるという。 特に第2次世界大戦以降は、周辺諸国が次々に独立した為、中国の人口増大に反比例して南下政策が取れなくなり、その代わりに周辺諸国のウイグルやモンゴル、チベットに ”移動” した。つまり南下できなくなったから、資源が豊かで多数の国と国境を接しているチベット占領に目をつけたのである。 特に毛沢東は、朝鮮戦争で米国が半島から進攻し、次にチベットから進攻する事を恐れていたので、チベットの 「文明開化を進める」 と称して彼らの価値観を押し付けた。 そして米国の 「帝国主義侵略からチベットを守る」 と公言したが、その頃チベットには7人の外人しかいなかった。 その内2人は日本人であったが、中国はその侵略を 「解放」 と称した。 日本の教科書には、この中国の 「侵略行為」 を、最初は 「中共軍の侵入」 と書いたが、やがて 「進入」 になり、日中友好以後は何故か 「解放」 と書いている。
中国の戦略の特徴は、 「相手の中に入って混乱させ」 やがて武力で平定するもので、今の日本を見ていると、例えば 中曽根発言河野議長 の行動などは、かってのチベットと同じだと感じる。 それに気づいてから武器を取っても遅い!。 中国外交の常套手段は 「貴方の国にも靖国参拝反対者がいるではないか!」 という脅しである。 これで日本側の反論は終わりである。
中共軍が侵入した時、チベットでは 「なんとかインドに頼もう ……」 とか、 「国連に訴え様 ……」 と行動したが、インドは動かなかったし、国連も3回決議され、国際司法裁判所で侵略と認定されたが、既成事実になっただけであった。 そして120万人のチベット人が殺された。
日本人には 「絶対的 『善』 よりも、少しの 『悪』 が許される。 これが国際政治の現実だということをしっかり認識して欲しい。」 ( チベットの悲劇については 「ダライ・ラマ…その知られざる真実。 ジル・ヴァン・グラスドルフ著」 河出書房が詳しい )
そして 「最近の日本には 『傲慢な資本主義』 が復活したようで、もう一度 『共産主義復活』 を招きかねないところが見える」 と警告した。 つまり 『形は民主主義』 だが、実態は 『資本家が広告でメディアを支配しているから』 正しい民主主義とは思えない。 悪しき資本主義の典型だというのである。 確かに対中関係では、進出企業の 『利益優先』 が日本政治を支配しているところがある。
チベットの今後については 「中国はチベットを飲みこんだが、消化し切れていないから、やがて 『吐き出す』 だろう」 というが、日本の現状は、 「かって仏教国・チベットでは、指導者である僧侶達が殺生を禁じた教えを優先し、 『仏を拝んでいれば平和は保たれる、と主張し抵抗を禁じた』 が、その結果敬虔な仏教国・チベットは 『地獄』 になってしまった。
 日本人に言いたいことは、 『泥棒を中に入れてから鍵をかけてもダメだ』 という事である。 かってのチベット僧のように、本人は 『正義だ』 と思いこんでいるから始末が悪い。 そんな日本人が沢山いる!。 自分でいくら 『平和宣言』 をしても、他国の縛りにはならないのである。 仏教国チベットでは、中共軍の侵略時に 『宣戦布告』 が出来ないものだから、国民はゲリラとなって苦戦した。 その為、驚くべき事に自国民から 『賊軍呼ばわり』 されたのである。 殺生を禁じ、慈悲の心で接すれば、仏に祈れば苦難は去る、と思っていたのである。 日本人も学校で 『平和を唱えるだけでは何の意味もない。 力を持つ事が真の平和維持に貢献する事』 を教える必要がある。 国際社会の現実を国民一人一人が知れ!ということだ

 当たり前の事であるが、国を奪われたチベット人から体験を元に話されると説得力が一段と増す。

 ギャルポ氏が言った 『泥棒を中に入れてから鍵をかけてもダメだ』 という言葉が妙に頭に残っていたが、産経新聞が8月2日から数回にわたって連載した 『歴史の自縛・戦後60年』 という記事を見て納得がいった。

 『侵略謝罪』 を実行した 『村山談話』 作成時の秘話は、村山富市元首相、細川護熙元首相、谷野作太郎元駐中国大使、古川貞次郎元官房副長官、松井孝治参院議員、橋本龍太郎元首相等、中国に全面譲歩した靖国参拝問題では、中曽根康弘元首相、後藤田正晴元官房長官、北城恪太郎経済同友会代表幹事等 が深く関係していたと顔写真入で批判している。
 いわば彼らは戦後の日本国民にとっての 『A級戦犯』 ならぬ、『永久戦犯』 ではなかろうか?

 1930年代、中共は国民党内に分子を送りこみ、盧溝橋事件を引き起こさせて国共合作を成功させ、対日戦に引き込んで国民党軍の消耗を図り、やがて天下を取った。
 ギャルポ氏の言葉通り、中共の戦略は、相手のうち懐に入りこみ、相手を混乱させて勝利するのが常套手段である。
 我が国内には、既にこれだけのシンパが入りこんでいたのであるし、現在も 『教授』 や 『研究員』 の肩書きで相当数が入りこんでいると見られる。
 まさに我国は 『泥棒を中に入れて鍵をかけ様としている状態』 であるが、どのくらいの 『有権者』 がこれに気づいているのであろうか?